++ 作 者 贅 言 ++

みなみやま】【作者贅言跡地
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「小片雨霰」作後贅言 2010/11/19

■ネットや文学フリマの読者を想定した場合、ごく短い話を、チラチラと眺めてもらうしか方法が無いと思われたので、書いてみた。つくづく、「あっと言わせる」というのが苦手である。あたくしの作法では、作者が読者なので、「あっと言うわけがない」のである。
作品の順序は、単純に、作成した順とした。出来不出来、主題設定などあれこれあるような、無いような感じなので、出来に応じて並べ替えるよりは、作成順=思考の順番を提示してしまえと思った。乱暴な話である。
■各話各言
「雪の配布」
 舞台が夏なのに巻頭で良いのか不安。ごく短い話をたくさん書くのは初めてで、どのようなものを書けば良いのか、模索しながら書いて、模索したまま終った。
「喜太朗の失恋」
 前話とまったく違う話にしなくてはと書き始めたらこうなった。
「偽善」
 どんでん返し、意外な結末……と、強迫観念のうちに書いた。「どこかで聞いた話」を上書きするのは、安易である。
「恋と友情の結末」
 意外な結末……を考え続ける。しかし、恋愛で、どのようなどんでん返しが成立しうるのか。
「小片雨霰」
 表題作。意外な結末、どんでん返しなんて、無理! と開き直ることを悟った。会話の主は、ツイッター小説の僕とリャンさんである。
「それどんでん返しじゃ無いだろう」
 というわけで、どんでん返しは無理だと開き直った。
「往復書簡 往」
 どんでんは求めず。「月と地球の往復書簡」をそのまま掲載してやれ、もう面倒くさくなった、と思った。
「探偵が犯人」
 開き直ったら、ちょっと気楽になって、意外とまともな「ショート・ショートらしいショート・ショート」ができた。てきすぽどーじんへ載せる。
「昔昔」
 でも結局、こんなものになってしまう。
「通りの向うから」
 しかし、ショート・ショートは、あらゆる技法あらゆる結末で試されていると思われ、何をやっても既視感にとらわれる。
「コーヒーの色」
 そこで、UFOを持って来る。
「十九」
 UFOシリーズのカモフラージュ。何となく、世の中に出回る日本語フォントは気に入らない。誰が悪いというわけじゃないのだろうが、日本語、漢字の質が見えていないのじゃないか。
「チヤムピヲン」
 UFOシリーズ。この辺で、「この小片シリーズで、文体をあれこれ試してみることができるじゃないか」と気づく。
「UFOにさらわれる話」
 UFOものおしまい。文体実験。
「洗濯物」
 ちょっと間をおいたら、何を書いたら良いか分らなくなる。
「とんびにあぶらあげをさらわれる話」
 やっぱり文体実験だなと気楽に考え始める。
「テリー夫人」
 気楽にやると、ショート・ショートらしいものができる。
「弥勒菩薩顕現吉祥譚」
 19。
「モモカ!」
 文体実験、ライトノベル。饒舌はラノベの特色。もっとやれば良かったと思う。個人的には気に入っている。こういうのが好きなのだなあ。
「おことわり」
 言葉狩りは鬱陶しい限り。
「旅行計画」
 これを載せたらおもしろいじゃないか! と一人でニヤニヤしながら仙台旅行の日程表をそのまま掲載。
「官房長官の嚇怒」
 これだけあとから付け加えた。時事ネタは、載せるべきじゃなかったかもしれない。
「喪主」
 文体実験にも飽きてきた。落語口調。
「往復書簡 復」
 短い話がたくさん出来なかったら、往復書簡を四つ五つと載せるつもりであったが、存外数が増えたので、「往」を締めてしまおうと思った。枝雀「地獄八景」をパクる。
「赤い金太郎」
 金太郎、坂田金時、坂田金平ものを書いてみようかと思いつき、調べてたら出てきた話。今昔物語だったと思うけれど記憶に無い。ちなみに金太郎は、近松が浄瑠璃にしていたので、意気地が無くなった。
DDV(デート・ドメスティック・バイオレンス)
 駅前かどこかでもらった、広告の類に紛れ込んでいた。奇妙なものをみると、小説にしたくなる。
「ポエム」
 ネット詩人のきたならしいポエムはどうして、ああも、心を打たないのかを考えた。とはいえ、西野カナとかJUJUとか、ヒルクライムというのを見ていたら、彼らの見る世界は、本当にああいうポエムどおりなのだと見極められて愕然とする。この世界を認知していないのだ。ねえ、どうしたら良いの?
「実際の旅程」
 こうなったら、仙台旅行記を載せるしかあるまい。幸田露伴全集の紀行文に感心して、自分も書いてみた。
「極小片十話」
 【ひねり】 そのまま、もっと短い方が良いだろうと思った。
 【どしゃぶり】 雨の日に書いた。ショート・ショートって、所詮、こんなものじゃないの?
 【殺人事件】 これは一番うまいのじゃないかと思う。
 【お定まり】 西尾維新「刀語」の第2話だったか、真庭忍者3人衆が壊滅する前の会話に感心した。「死亡フラグ」の知識を前提にした会話遊び。パロディを前提にするご時世だ。
 【イケメン】 有名な話を目指したが、及ばない。「あなたが20年間、その煙草を吸わなかったらあのベンツが買えたのです」「あれは私のベンツです」「もう一台買えたのです」
 【酔っ払い】 これは割と上出来。
 【老師】 殺人事件、酔っ払いと同じような話を志向したが、全然ちがった。
 【幼馴染】 モモカ! を志向したが、微妙。
 【省エネ及び環境破壊】 最初からこれは書くつもりだった。
 【悲劇】 最後はまともに書けた。

「恋愛模様 瀬戸登瑠」作後贅言 2010/10/15

■ジャカルタ国際空港で待ちぼうけしている2時間で書いた。
パブーというところに恋愛模様などを置いてみると、頻繁に更新している「あやまり堂日記」以上に、「恋愛模様 村芝健司」をダウンロードしてくれる人が多く、何かの間違いじゃないのかと思いつつも、男作者ゆえ男の恋愛事情がおもしろく読めるのかしらんなどと思い、石川春奈編の続きのようにして、男子の恋愛模様を書いた。
思春期の人間が恋に落ちる前後――を描きたくて、ちょびちょびと書いている短編なので、恋が成立するかしないかは描かず、また、淡いまま終るような恋もあるかと思い、書いた。三角関係を描いたらおもしろいだろうなあと思いつつも、経験が無いので胡散臭くなると思い、慎ましやかな展開にした。
■ちなみに作者と登瑠くんの同一性を言うと、サークルの一つ上は男ばかりだったので、登瑠君のごとき心境にはなっておりませぬ、念のため。

芥川賞「乙女の密告」読書感想文 2010/09/02

■反吐を出したくなる。
おかしな女子大生の、キャンパスライフにおけるあやふやな自我構造を、「アンネの日記」を用いて、頭のおかしな文章とともに得意げにつづったもの。
絶賛する多数の選考委員のように、おかしな文章を、親切に解釈してさしあげる義理などないし、乙女が、乙女が、乙女がという世界に同情を寄せてさしあげる意欲も持たなかった。
有史以来のユダヤ問題を、自身の解釈で展開するのは構わないし、アンネのあやふやな自我と、若い女特有のあやふやな自我とをからめたところは、読めたが、奇矯なドイツ人教授、逃げ出したスピーチ名人、浅いその他人物群、こういう連中を、丁寧に認識してさしあげる気力を持てなかったため、学園生活がいかにも胡散臭く、作為にしてもひどいように思われてならなかった。
中途半端なミステリー要素(教授が人形に話しかけるとか、最後の自己確信とか)も、うええ、今さらおまえ、これを主張するの????と、脱力するほかない。私は私です! みたいな。
蛇足ながら、そのミステリー(密告に遭うこと)も、誰が誰に対してどのような事実をどのように密告するのか。そもそも、その密告に遭うと、乙女はどうなるの――連れションが出来なくなる?
結局のところ、クラス内での孤立と自我の揺らぎという程度にしか理解できず、これが中学生を主人公にしていたのなら、まだ読めただろうが、おばさんくさい不細工な女子大生の顔が透けて見えて、何の同情も持てなかった。
■頭のおかしな、ちょっと特異な感性を持つ女が、それ以上に奇妙な周囲の人間と触れ合う中で、最終的に、自己肯定する――。
このところの典型的な芥川賞小説であったが、今回は、そこからさらに「現代社会」さえ欠落しており、作為作為しており、
もう、何なの、これ?
もはや芥川賞を読むのをやめようかと思った。
こんな純文学、読まれるわけがない。
■あととりあえず、選考委員が多弁に過ぎる。特に賞賛している連中。
原稿枚数は編集部の意向なのかもしれないが、言葉を尽くして褒めるほど、胡散臭く思われた。基本的に女の選考委員が褒めていたが、同類相哀れむというやつだ。みっともない。

「菱塚幻七郎の宿命(短編)」作後贅言 2010/07/01

■挑み続けの長編。
何が破綻の原因か、何をどうすれば多少は良くなるのか、考え続けてもむなしいだけ、とにかく書くしかないと思い始めた中での一作。
90枚とはいえ、本当に久しぶりに、というより、キャラクターものでほとんど初めて、読後の満足が高いものとなった。
「あやまり堂日記」に書き付けたメモによれば、今回気づいたこととして、
主人公が何者かを語ること。
多めの地の文。
小間切れ会話。
――いずれもおそれちゃいけない。
また、成功の要因については、
 1.登場人物の少なさ(絞り込み)
 2.細かな特殊設定(厨2設定ともいう)
 3.でも物語の筋は単純明快
それから何より、
物語の筋でもなく世界観でもなく、「キャラクター」を描くことに主眼を置いたことも、大きな要素か。
ほかに、注意すべき点として、
・敵と会話できる機会を、無駄にしない。
初顔合せの折に、
「フッフッフ、おまえを殺す」「やってみろ!」「わっはっは、城で待っているぞ」
というような、差し障りのない会話だけにしてたら、もったいないです。
主人公の過去を抉るような、秘密を暴露するようなことをついでに喋った方が、効率的。
さらに、
最初は、さくさくと読み終わる話! 
を念頭に置いて、枚数が足りなかった場合に、あとから書き足す――
というやり方にすると、話が広がりすぎず、気楽に完成させられるかもしれない。

こういった辺がうまく行ったため、ある程度満足の行く出来になったのかもしれない。
あと2つエピソードを挟めば、おそらく200枚程度になるだろう。そうすれば送付できるので、送る。
この頃は、とにかく数を書くことが一番だと感じている。
何より、今回、初稿90枚が20日程度でできたので、非常に良い感じだ。
■往復書簡「月と地球と」を、「星間通信」と改題して、昨日送付。

わたくし版「方丈記」現代語訳 訳後贅言 2010/06/23

■読んだことがなかったので、半年ほどを費やして、チマチマと訳しつつ、読み進めた。
中世随筆の名作! 隠棲文学、厭世文学の傑作! といわれる割に、全文を読んだことがなかったなあと思い、退屈つぶしもかねて、わずかずつ訳して行ったところ、要するに「ニートの愚痴」の極致であることを発見し、感動していた。
名文であることは疑われないにしても、世に背いた自己を肯定し、都会の俗人を否定するさまは、ネットで見聞きするひきこもり・ニートの愚痴と変りないように感じられた。
そしてこういう引き籠り肯定文を尊ぶあたり、日本人には、昔から、俗世から逃げ出したい欲求が高かったものと考えられる。まあ、世界全体、そういうものかもしれない。
■訳して行く中で、たとえば、鹿ヶ谷の陰謀と、都の竜巻が同じ年に起きたことであることが判然としたり、中世期における歌人知識の「常識」を見たりして、なかなか勉強になった。頻発する飢饉や天災に、藤原氏、平氏は滅ぼされたのじゃないかとも思った。そういう世間全般にひろがる頽廃、厭世的な気分に、鎌倉武士は清新さを感じさせたのだろう。
■行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
この名文は、訳せない。
そのほか、どうしても訳せないところに頬被りして、どうするかを、試行錯誤するのは、楽しかった。
あと鴨長明が糧食確保のため、時々都へ降りていたことも分った。。。続けて訳し始めた「宇治拾遺物語」とあわせて考えれば、乞食僧侶の類は、都中に多かったに違いない。
■興奮はしないが、淡々と最後まで進められて、悪くない気分。

「鈴鹿トンネル」作後贅言 2010/04/20

■短編量産計画その3。
その1、その2も短かったが、これはとうとう800文字。ただこのくらいなら、どうとでも書けることが分って安心した。
テキスポ800字バトル企画参加作品。お題は「携帯電話」「乗り物」「男の子」という3つ。
企画したのは当の私だが、まあ、別名で載せる分にゃ構うまい。
800字、ちょくちょく書いている気がしたら、第1回、2回に書いたきりだった。あらま。
■今回は、全文を意識的に書くことができたように思う。
会話の緩急、地の文の使い方。
長編をやりながら、その成果を反映させる短編を書き続けるのは、やっぱり、良いことのようだ。
800字なので、工夫も何も無いが、登場人物3名、母親からは人間味を失わせ、父親は肉体だけを見せて、息子は元気な男の子という類型に見えるよう気を遣ってみた、ということはある。
とりあえず、このくらいのものが、このくらいの水準で書けて、良かった。満足じゃないけど。

短編「職務質問」作後贅言 2010/04/06

■短編量産計画その2。
日本刀をさしたマネキンが、秋葉原のどこかの店頭に立っている――という話をネットで見かけて、それを作中人物に装着させて、それでどうなるんだか見当も付けずに書き始めたところ、何事も無く終った。
すでに、自分がこれまで、どのように短編を書いていたかを忘れてしまっており、存外、今回と同様、モチーフと方向性だけを決めたら、あとは着地するところが決るまで夢中で書いていたのかもしれない、とか思ったが、そんなこともあるまい。本当はどうであったろう?
何にしても、もう少し量産して、感覚を取り戻したいというか、現在の自分として、短編を書く感覚をつかみたいように思う。
今のままでは、何が何やらよく分らない。

短編「就職難」作後贅言 2010/03/15

■短編なんていつでも書ける、と思っていたら、あまりに書けなくなっていたのでこりゃいかん、何か書かなきゃと焦った挙句、書けたのがこんなものだったので、こりゃいかん、もっと書かなきゃと焦っている。
こういう、最後を読ませたいがための「落ちもの」はあたくしの嫌う最たるものなので、なるべく、最後の価値を下げようと頑張ったが、「落ちもの」にしない限り、終らないようだったので、これであきらめた。
一気に書ききった点は、満足している。
KL時代、持て余した暇の最中に書き上げた「魔王」という、ほとんど最初期の短編からすれば、多少は成長したようにも思うが、実はそんなに変っておらず、慄然とするばかり。
■いずれにしても、これは、先日、確定申告のため税務署へ行き、そのついでに同居する職安を見てきたため、書けた一編。たまには、妙なものを見物してくるのも価値がある。
こうしてある程度、何か新しいものを知覚しないと小説が書けないというのは、良いことなのか、悪いことなのか。
同じものを量産しても仕方ないと考えているから、何かが無いと書けないわけだけれど、何も書かないと、こんなものしか書けなくなってしまうから、さてどうしようかと、茫然とするばかり。
しばらく、短編を量産してみようかと思っているというか、願っている。。。質はともかく。

芥川賞候補「ビッチマグネット」読書感想文 2010/03/08

■受賞作なしなんて、別段珍しくもない――と思いきや、ここ十数年は無かったらしい、文藝春秋に候補作として掲載されていたものを読んだ、ら、
コレハヒドイ。
主人公の口調からして気持ち悪く、違和感があり、いや、そんなことはどうでも良く、時々思いついたように自問自答する問いかけは陳腐きわまりなく、悪びれぬ現代ミステリー小説の要素を詰め込みつつ進展する物語に何の興も覚えることは出来なかった。
これは現代的若者の成長の物語だと読み取った池澤夏樹の絶賛があって掲載されたようだけれど、なるほど、それを主題だと読み取れば、いかにも現代的であるし、長いし、あれこれ呟いているから、大した作だと感心もできる――だけれど、これはまさしくあたくしの嫌いな現代アートの名品の鑑賞マニュアルじゃまいか?
薄っぺらいものを、どぎつい様式で提供して、見る側に解釈を強いる――。
で、人によってはそれに大感心し、大絶賛するが、大半の人は、「ああ、アートね」と呟くだけという、別世界。
……そういう次第であるから、大半の銓衡委員の「悪くない点もある、けど別に」というコメントに程度が表れていて、でも結局、それが今主流の、現代文学の傾向全般じゃまいか。

小説作法の説明 2010/01/26

■過去の「あやまり堂日記」から、小説作法に関するメモを抜き出し、編集して、ブログへ転載している。
あたりまえのことを、妙な言い回しにして「発見」しているなあ。。。
と思う一方、「具体的な小説作法が口に出来るようでは、小説なんて書けやしないのではないか」と感じた。 
人がどうやって息をするのか、声を出すのか、歩くのか……を、うまく説明できないようなもの、ということもあるが、「そもそも論」としても。
■自己存在についていうと、人間は、自己については曖昧にしか了知することができない。
が、他者については、そこにありさえすれば、他者として認識し、ああだ、こうだと説明してみせることができる。
で、自己と他者とを区別するものは、自己範囲からの違和感であるとすれば、認識し、弁別できるものは、他者である――と言える。
というわけで要するに、小説作法を認識し、説明できるというのは、自分の側に身についていない、違和感があるため、であって、
つまりそれは、小説がまともに書けない証左である――と、まあ、だからどうしたと呆れるけれど、ブログへ転載中の「自分の小説作法メモ」のまとめとして、ここへ書いておく。

社会政策の限界 2010/01/22

■ニートに興味があるので、昨日の「『助けて』と言えない30代」というクローズアップ現代は、おもしろかった。
30代の浮浪者が、「自分が悪いとしか言えない」と述べたのは、「あなたが主人公」「あなたは悪くない」「悪いのはあなたを受け入れない社会の方」と、徹底的な自己肯定を刷り込まれる、ゆとり教育以前であったためであろうか。
あるいは、もっと単純に、30代ともなり、自分の人生と先行きを客観視したときに、「どう考えても、無能な自分が悪い」と見極めたためであろうか。
……今ここに記してみて、後者が強い気がした。
■それはさておき、ではどうするか。
TVでは、「独りではないことを知らせる」という、その場における対処を言っていたが、生活保護等の延命方法を教えたところで、彼ら自身が知っているように、38歳、資格無し、才無し、という男が、今後見事に自立を遂げるなんてことは考えにくい。
というより、「38歳の資格無しの薄汚い男」と、たとえば、「努力と投資の末に資格を50ばかりも獲得した美男子」が同列に置かれるのはおかしく、どう考えても、前者は、底辺より這い出せるものではない。そこは認めなくてはならない。
――現状には希望が無い。
とも言っていたが、ではその「希望」とは具体的にはどのようなものを望んでいるのであろうか。
年収1000万の職か。
家具付き家賃1万円のアパートか。
――とんでもない、せいぜい、仕事があって、住むところがあって、食うに困らない生活だ、彼らはそう答えるであろう。
とすれば、施策としては、如何にこういう者たちを「そういう底辺において安住させるか」を思案するほか無いのではないか。
狭いアパートと、最低限の給金の保証。
■といって、公的資金を与え続けるのは、愚というほかない。
働かざる者食うべからず――。
求職が無いために働けない、のは心底より同情するが、だからといって、そういう連中が、仕事をしている者と同じ飯を食うなんてことがあって良いはずがない。仕事をしている者が、浮浪者を搾取しているわけではない以上、生活の質における差別は当然である。
無論、いくらかは、相互扶助により、助けて然るべきである。明日は我が身、という認識は無ければならない。
が、そうであるからといって、「今後100%、改善の期待が持てぬ者」を、いつまでもそのままで養っておけるほど、人々は金を持っているわけでもないし、そういう連中を見つけ、こちらから助けてやる義理も無い――と、少なくともそういう現状であることは、事実である。意識改革をしたところで、寄付金の額が1割2割増える程度である。
■必要なのは、彼らを自活させることである。これは、言うまでもない。
そしてまた、彼ら自身が、自らを保護するように仕向けることも必要なのではないか。
どのように?
まず、彼らをどこに於いて自活せしめるかと言えば、上層の人々が嫌う最底辺の仕事に就けるほかに、場所は無い。
そこは動かしがたい。
可哀相じゃないか――と言ったところで、今さら彼らが、十数年にわたって自己研鑽に努めてきた一流サラリーマンや、ぴかぴかの大学4年生と同等の職に就けるわけがない。 前者は即戦力、後者は今後十数年ののびしろがある。 これは厳然とした事実である。
また保護について言えば、セーフティ・ネット・生活保護の涙銭を与えるほかに、彼らをどのように保護するかと言えば、彼ら自身が同胞組織をつくり、たがいに慰謝し合うほかに方法は無いように思われる。 切実なのは、究極的に、彼ら自身だけである。
ある程度自活できている者は、「かわいそうだなあ」「ひどいなあ」と呟いても、「じゃあ、仕事代わってよ」「住処を交換しようよ」と言われれば、絶対に否と叫ぶ。
当然である。 せいぜい、いくらかの銭を投げるばかりだ。 その投げ銭で足りれば良いが、現状は、足りていない。また、怠惰な浮浪者が存在してしまっている以上、足りるわけがないのだ。
■ではこういう時、江戸時代はどうしていただろう――と、いつもどおり考えると、江戸時代には、非人制度というものがあった。
士農工商穢多非人――という差別議論はそのうち感情論へ突き当たるので立ち入らずに、制度自体を見ると、たとえば、江戸では、物乞いは非人だけの特権であって、多くの非人はそれで自活していたし、何より非人は、すべて、非人頭の支配下に入る必要があった。
差別! であるが、見方をかえれば、非人頭は、配下の非人を保護する義務を有しており、物乞いによって非人にも自活する権利が与えられていた、ということができる。
当人の意志は、知らない。
屈辱、辛酸、無論あったに違いないが、野垂れ死ぬことを思えば、それが江戸期におけるセイフティ・ネットであったと言えなくもない。
また非人の職といえば、街角の清掃、芸能、長吏の下役、刑死者の埋葬、病気になった入牢者や少年囚人の世話……非人でなければ、ほかになり手が無い職であった。 
繰り返すが、これは差別! であるが、非人は誰もやりたがらない仕事をしてくれていた、と褒めることだって出来る。 そういう観点で見れば、果たして差別とは何だ、という議論になる――から、差別論には触れない。
■ともかく、非人制度は、ある程度、現代に適用できるのではないか。
無論、現実に差別的な非人身分制度を設ける必要など無いし、生活保護金の給付など、国は江戸時代より、遙かに強く関与することができるはずだ。
しかし、現実に、なり手が少ないゆえに公共で、しかも特別手当を加算して行っている仕事――ゴミ回収や火葬場、獄卒といった職種は、彼らの中で行ってもらえば良いのではないか。
そんな汚い仕事に、しかも低賃金で従事させる気か!
と叫ばれても、現状、たとえば空き缶回収など、彼らが勝手に抜き取り、業者に売り払っているのに、行政が大きな収集車を割り込ませて、「ぬきとり禁止」などと看板をつけているのだ。
馬鹿馬鹿しいにもほどがある。
彼らがやれるなら彼らに任せれば良い――というより、それらの業種は、低層に留まってしまっている彼らが行い得る稀有な業務なのであるから、彼らに任せるべきではないか。
■現状の社会福祉には、無理がある。
行き倒れの人間を保護しようとすると、家を提供し、金を恵み、仕事まで斡旋する必要がある。
言うまでもなく、可能であれば、そうすれば良い。
昔の、農業主体の世の中であれば、納屋に住まわせて畑の草むしりでも何でもさせることはできたかもしれない。
だがサラリーマン主体の世の中で、また景気が停滞している中で、ワークシェアリングがどこまで可能か。1つのオフィス・チェアに座れるのは1人だけであるし、コンビニの店員は十人も要らない。
こんな状況で、充分な施策を行おうとすれば、畢竟、あまねく行き渡らせることができず、セイフティ・ネットからこぼれる人を出さざるを得ない。 プライドの高い30代無職が、そのプライドゆえに生活保護申請に来ないからと弁解しながら、放置するしかない。 無限に湧き出すような、怠惰ゆえに職が見つからない浮浪者も、また放置するほかない。
■万民平等精神と、同情精神が、妙に重なって無理が生じている現状。
ここはひとつ、あきらめる、開き直る――ことから始めるほか無いんじゃないかと感じた、夕べの感想文。
この辺、恰好の小説材料になると思うが、まずは、メモメモ。

「全員主役」作後贅言 2009/11/25

■あらま、こんなに書いてなかったのね。
長編勝負を続けているので、書いていない自覚は無かったのだけれど、それでも、こういう短いのは久しぶりでした。
■文学フリマにコピー冊子を並べるため、何かひとつくらい、新しいのを書き下ろしたいと思いつつ、どうも興味が起きず、あきらめていたところ、大阪へ出る用事が出来て、その、行きの鈍行車内で一気に書けた。
主題は、前々から思っていた「一人一人が主人公」思想と「地球環境主義者」のすさまじい自負心。
地球環境主義者には、人間が地球を壊しているから人間が地球を直す、くらいの意識があるに違いなく、しかしそれはあたくしなどにしてみると、所詮人間――の諦観、思い上がりも甚だしいと思わずにはいられない。 この頃は、「地球温暖化を肌で実感」なる文句さえ見てあらますごい近視だわこりゃと思う一方、都会暮らしなればこその発想であろうと納得。
で、この人間を絶大なるものだとする思想はどこから来ているのかと考えを巡らせれば、全員がひとしく最強の主役であるとする現代教育に行き着くのではと思い、試みた今回。
ただこの手の歪み、醜さを描くのは容易であるけれど、既に描いているし、大して興味を惹かれない。 愚か者を誇張する描き方――大学時代、大好きであったけれど、今はそれほどでもない。 たぶん、当の自分がその愚かさに巻き込まれているという、やるせなさがあるため。 世界を知った当初は、完全に他人事であると認識できたけれど、今は……。
■その他、ちょうど里見ク「極楽とんぼ」を読み返して良い気分になったので、その文体を使ってみた。 読みにくいかもしれないが、この文体は、アリかも知れない。

芥川賞「終の棲家」読書感想文 2009/09/03

■またも、あまり好感が持てなかった。
作者は男であるけれど「ちょっと特異な視点と感性を持つ、中の下ないし下の上階級に属する三十路近い女の愚痴」シリーズに並べても違和感は無い小説。 もっとも主人公は大手企業の幹部で、階級でいえば上位に属するであろう。 だがそれ故に生活における切実さが無く、言葉の選択、表現方法を取り除くと、実に薄っぺらであった。 「三十路女の愚痴シリーズ」よりは、これらの言葉の選択、表現方法のために文学を読んだように感じたが、それは要するに、青臭さい書生臭かとも思った。
十一年間妻と口をきかないとか、満月が何日も続くとか(後者は気づきもしなかった)そういう特殊な描写も、それを文学的表現として選択したのだと気づかせてしまうあたり、青臭いだけに思われた。 今時、わざわざそう言う必要もないだろう――言ったってかまわないけれど、その方法で言うに値するのだろうか。
なるほど時間を描く――という試みは、悪くないようにも思われた。 単なる思い出物語に堕す寸前で、辛うじて踏みとどまっているのは、上述の特殊描写のお陰かもしれない。。。にしても、どうでも良い男の愚痴に付き合わされて疲れた。
あと何枚で終るのだろうと、途中で残ページを何度も数えた。
最後に、アメリカから帰った主人公が、終の棲家に至る箇所には実感が無く、そのことも結局、浮ついた感じを与えたように思われる。
■書きたきゃ書けば良いが――という程度の話かと思われた。 最近そんな小説ばかりだ。

「曾我兄弟の敵討」作後贅言、長編三昧 2009/09/01

■下で書いた、曾我物語30枚の続きを含めた70枚。送るので、ウェブには載せない。
九州さがの規定が70枚だから、70枚に削ったが、せめて100枚欲しかった。削りすぎた。
とはいえ、削りすぎたという点を除くと、不満、不足は無い。これで落ちたら九州さがはやめるというのは、変らない。
以前から、あたくしは、自分でバッチリガッチリ満足するものが書けて、それがどこにも引っかからないで落ちたら小説をあきらめるつもりであった。 評価する者が悪いとか、認めない世間が悪いとか、そんなことは別にどうとも思わない――のを、昨日、ふと不思議に思ったけれど、所詮あたくしは他者存在が分からないので、どうやらやっぱり、他人の評価を気にしていないらしい。無論、けなされたら嫌だし、褒められたら嬉しいし、賞賛&金ともなれば、パラダイスけれど。
要するに、あたくしは、他者による賞賛・確認によって自己を保持するという傾向を持たないのだ。
その点、素人作家には珍しいかもしれない。
■まー、それはともかく、この頃、応募用の長編ばかりを書いている。
いずれも、完成に近づいている。
完成すれば、投稿することになるが、現在の4編、それぞれ数ヶ月から一年以上、あたくしの頭の中を占拠しているので、投稿したらぽかーんと、虚脱してしまいそう、そして落ちたらさらに呆けてしまうだろう。。。と思いつつも、すぐに次の長編を始めて、それが今度は頭を占拠するに違いなく、余計な心配は無用かもしれない。
次は岩見重太郎を書く。来週、天橋立を見てくる。
それが終ったら、曾我物語を300枚にする。やっぱり、もうちょっと書きたい。
あとは、「破茶目茶」長編を読み返し&完成&投稿したいところ。
なんだ、どうしても書いているじゃないか。
■吉川英治は、「無人島に一冊だけ本を持って行くとしたら?」と問われて、「何も。ただそこで自分で書いたものを自分で読んでいる」と答えたらしい――あたくし、その答えが大好き。
ところで、文研時代に書いた「チェーン・メール最終回」をこちらにも載せました。

「新曾我物語」作後贅言、歴史物語への態度 2009/07/02

■作後――とはいえ、これは完成していない。
曾我兄弟が、討入りを決意するまでを書いただけであるから、曾我物語全体からすれば、ちょうど前半部分だけにあたる。
大学の文研OB雑誌用に、原稿用紙30枚程度、ということを念頭に書いたため、当初からこの前半部分で終えるつもりであって、優柔不断な兄が、ようやく肚を決める――までで、小説になるように思っていたが、まあ、やはりというか、討入りまでを書かねば、曾我物語にはならない。 年末までに「後半」を書き、九州さがへ送ろう、と思う。 これで落ちたら、もう九州さがは、やめる。
■さて、曾我物語。
日本三大敵討ちに数えられるが、もはや誰も知らない。 オッサン、オバハンくらいは、知っているだろうが、これからの世代は、まったく知ることもないだろう。 いずれ赤穂浪士も荒木又右衛門も死滅するだろうが、曾我兄弟の方が早い。
失われつつある日本の歴史物語を復活させる! などという意識は、無い。 それは何か間違っている気がしていて、そのことは以前、「この時代に歴史小説を書こうという白痴」で書いた。
■C.S.ルイス「廃棄された宇宙像」という本を安く買い、翻訳汚文に発狂しながら読んだ中に、ある中世の作家が、歴史物語は「想像力を楽しませること」「好奇心を満たすこと」「祖先からの負債を解消すること」あと、「範例を得ること(教訓ではない)」を目的としていると書いていた、とあった。
要するに第一は、おもろい話。 第二は、歴史への興味(ただしこれは雑学の範疇を出ない)。 第三は、偉人を偉人として称揚すること。伝記。 そして第四は、たとえば逆境にある人を「昔の人はこうして頑張ったのだから、おまえも頑張れ」と励ますようなもの――ということ、らしい。
ただ、高貴な歴史上の人物の事跡を保存するために書く、歴史雑学を披露する――というのは、あたくしとしては、気乗りしない。
何故というに、過去は、過ぎ去るものであるからだ。

■歴史を語り継ぐ――という話は、昔から聞かれるが、第二次大戦については、この頃は、まったくの無知が語る場合が増えていると、マス・メディアが言っていた。 祖父母あるいは曾祖父母あたりから聞いた話を、女子高生やら大学生が得意げに話す。
語り継ぎたきゃ勝手に語り継げば良いと思うけれど、そうして語られる歴史には、やがて誰も耳を貸さなくなるだろう。 「あの忌まわしい戦争の惨禍を永遠に風化させない」ことは、無理である。 歴史教育の不徹底などという問題ではなく、過ぎ去るものを、知らないことを、人は長く意識しない、それだけの問題。 心がけの問題だと叫ぶ人には、では、あの悲惨な明治維新、戦国時代、南北朝動乱、源平合戦が語り継がれていますかと問えば良い。 記録はあるけど誰も語り継いでいない。 (どうしても語り継ぎたかったら、平家を語る琵琶法師のようなシステムを残せば、継げるかもしれないが、それも今や伝統芸能)
基本的に、歴史など雑学に過ぎないと思うし、先のC.S.ルイスによれば、中世では「時代感覚は存在しなかった」らしい――これは、日本でも同じで、岩見重太郎が日本各地に出没した話とか、弘法大師の秘蹟、最近でいえば戦国BASARAで、織田信長と真田幸村が激突したりするらしいが、あたくしは別にそれで良いと思っている。 歴史なんて、所詮、そんなもので良い。 
ただし作家としては、史実を調べなければ、話にならないけれど。
そんな中で、曾我物語、歴史物語。
■曾我物語の原典を読めば、優柔不断な曾我兄と、短慮の弟、それから時代の変化、というのが見えて、それは現代にも成立する事象かと思われた。
ぶっちゃけると、兄弟は、ニートである。
兄は、養親のすねをかじりながら、北条や畠山、三浦に強力なコネがあるにもかかわらず、任官せず、叔父や祖父が悪いのかもしれないが、とにかくウダウダしている。 弟は、僧侶になるべく箱根にあったのに、そこを抜け出した。 名門高校を中退した悪ガキみたいなものである。
ただ両者には、敵討ちの念があった。 そしてそれを口実に、勃興しつつある鎌倉社会での人生を、拒みつづけた――感を受けた。
実際は、分からない。 知りようがない。
それゆえに、兄弟の行為を称揚する意図は、無い。 といって、批判する意図もない。
ただ、そういう兄弟の行為を、現代において、自分が描く場合、こうなる――というものには、為したかった。
でもそれであれば、現代を舞台に、現代人の様態を描けば? と言われたら、返事のしようがない。 何故に歴史物語なのかは、分からない。 歴史物語であれば結末が知れているから、ということは、ある。。。ああ、歴史物語の意義は、それかもしれないなあ。

■現在を、現在進行形で生きている以上、結末は死ぬまで訪れない。 また現在社会を描くとなれば、それこそ、結末は永遠に訪れない。 だが、歴史物語であれば、少なくとも、過ぎ去った出来事を、過ぎ去った出来事として見ることができる。
曾我物語であれば、兄弟が敵討ちを果たし、殺され、女が供養する――という結末は、ある。
ともかく、文研版の前半では、万事、不足している。 後半を加えて70枚にする時に、描き込まねばならない。
■その他、文体、時代考証、難しかった。 ただこの削りきった文体は、気に入った。 成功しているかは、また読み返してみなきゃ、わからない。 
曾我物語の次は、岩見重太郎が気になる。 これもまた、失われた日本の歴史物語。 まあ、題材選びには、好きなものは好き、というのが、大半を占める。 それと、過去には有名だったはずなのに全然知らない、というものに、単純に、興味がある。

他者存在への懐疑 2009/04/20

■このごろ実感として、自分が、他者の存在を信じていないんじゃないか――と、驚いている。
何ちゅーか、そこら辺を歩いている人にも自我があり、知覚があって認識があって思考があって云々……というのが、どうも、信じられない。
世界には自分しかいない! という独我論めいた話は、あたくしはそもそも、自我存在は外界の受容を契機に成立する――ということを思っているので、自我という確固とした存在を基準にする独我論は、あたくしのこの感覚とは、異なるんじゃないかなあと思っていて、ドイツ人やフランス人の名前を挙げるのと、思考する分野がもはや異なってる、という自意識がある。
■他者の存在も、当の他者にとっては、その他者を構成する外界を受容することで成立するものであれば、確固とした他者存在はそこには無く、ゆえにあたくしがその存在を信じられないのも、筋の通らない話ではない――けれど、そうして世界全体の認識を曖昧なものにして行き着く先はどうなるんだろうなあと、ちと面倒くさい。
他者に依存して自我が成立する――と見ていたけれど、実は、あたくしが現に自覚している自我は、存在の曖昧な他者には依存しておらず(存在を認めていないので依存しようがない)、単にそれによる認識を自我成立の契機としているだけに過ぎないとすれば、このあたくしの意識=自我を有効に、安定的に保持するにはどうするべきなのだろう?
■これまでは、外界の受容に励んでいた気がする。
他者=外界の認識を進めることで、自我を構成しようとしていた。
けれども、その外界存在が、頼るに足らないものであったとしたら? あるいはその外界を頼るに足りないものであると実は、認識しているのだとしたら、自我はいったいどうしたら成立するのか。
――表現するしかない、と結論を持ってこようと思ったが、間に何か挟まなければ論理が通らない。
■自我を発信する際、他者(=読者)を意識していない――これは、実は昔からのことであり、それは、他者による賞賛によって自我を保持するという欲求が無かったためであろう。 もともと、他者存在を過信していなかった、と。
とすれば、小説を書くのは、自己へ自己へ向けての投擲――自己確認の手段にすぎない。。。

……なーんだ、そんなことか。 つまらん結論になったものだ。
でもまあ、とりあえず、自分が他者の存在を信じていない――のは、発見だった。
無論、前提的に他者存在を信じることのできる人は幸福。 仕事や友人関係など、外的要因によって自己存在が確認できるなら、それほど楽なことはない。
時に、うらやましい。

芥川賞「ポトスライムの船」読書感想文 2009/02/17

■またこれか……。
 と思った。 
 何ちゅーか、「ちょっと特異な視点と感性を持つ、中の下ないし下の上階級に属する三十路近い女の愚痴」シリーズに並べたい。
 確かに、よう書けている。
 描写は適確、雰囲気も関西弁が混じって軽妙、特異な視点と感性が、興味深くある。 さらに現代社会の一片をみごとに描き出して過不足ない。。。
 けど、こんなやつ、前にも読まなかったっけ?
 生存に切迫こそしていないけれど、幸福でもない、といって不幸というほどでもない境遇にある、要するにどっち付かずの女が、おかしな癖を持つ周囲を、とりあえず、観察する――実は、自分にも変な癖があって云々。
 飽きた。
 つまらん。
 ていうか、興味ない。
 選評も、小説作法談義ばかりになって、読む価値が失せている。 これをワーキング・プアと称している委員もいたが、この小説の主人公は、そいつらよりは上の水準にあって、現代社会へ問いかけることもない。
■純文学の価値基準、考え直した方が良いんじゃねえの?
 ……と、読み始めてすぐ思った。

「アンケート」作後贅言 2009/02/16

■テキスポ「みんなで300文字小説」企画参加作品。
この企画は、自分で始めたものだが、自分でも書いてみた。 割と好評で、放っておくと入選レベルに入りそうだったので、これを最低評価、ほかに高い点数をつけておいた。
300文字では何も書けない、というのが結論。
中日新聞サンデー版に掲載されていて、ウェブ上から簡単に投稿できるので、一応投げておいたが、正直なところ、どうでも良い。
新聞紙上に、毎週3作と、選評が載っているが、その選評が300文字くらいあるので、何だか馬鹿らしい。
■300文字にふさわしいのは、TVが盛んに流している、「1分で笑える漫才」だと思われた。この「アンケート」も、「イエス・フォーリンラブ」と結びたくなったが、丸パクリも何なので、もう一つひねっておいた。
とはいえ要するに「1分間のお笑い」がひどいのと同様、300文字の小説という企画もまた、ひどいわけだが、新しい人も来てテキスポが賑わったから、良かった。

「超人アルマス」作後贅言 2009/02/12

■……テキスポ「似非くいっくばとるリベンジ」企画参加作品。
「(´・ω・)」「チェルノブイリ」「老紳士」「出会い」のうち3つを使い、1時間で書き上げるべし、という条件。
1時間ってこんなに短かったっけ? チェルノブイリ原発っていつだ、UMA、だからロシアのUMAだ、といって恐竜の生き残りじゃ仕方ねえだろう、ええい、早くしろ、ウィキペディアー!とハラハラしながら書きなぐって、なんとか書ききれた。
何も考えずにただ全力で書き始めたので、前半に色々と、結末へ向うのにまったく関係ない小道具が並んでいる。そのどれかが手がかりになれば……と思っていて、結局、彼(´・ω・)の出家に到達した。しかし結末は最後まで見つからず、残り15分になっても分からず、この展開できたからには、彼(´・ω・)が、訪問者に欲情する、だと落ちないし、訪問者が彼を誘惑する理由も結果も思いつかない。
とりあえず純真そうな訪問者を悪人にして、それでどうだというのだという、残り10分。
悪人の動機は、あ、もういいや何でも、理由は伏字にしてしまえ……ああ、そうか、それなら……という感じで書き終わった5分前。
単純なドンデンを狙う「結末話」は嫌いなので、それを避ける方法を考えていたので、この結び方は悪くないと思われる。
一時間で書いたとはいえ、久しぶりに満足ゆく出来である。

「月と地球と」作後贅言 2009/02/09

■里見クの往復書簡集「月明の径」があまりに良かったから、そんなものを書いてみたくなり、それから泣けるほど切ない話にも挑みたかったので、合せた。
 月と地球。遠距離恋愛の究極形ではないかと思う。
 通常の遠距離恋愛は、単に離れ離れというだけであるが、月と地球は、その距離であるにも関わらず、場合によっては毎晩、見ることができる。澄んだ夜空であれば、手を伸ばせば届きそうな月、反対もまた然りであって、互いに見詰め合っている状況のまま、届かない。
 ……そんなこと、竹取物語の時分から当然なので、今さら偉そうに述べるなんて恥ずかしい。
 ただ、通信、交流による変化を描き込むには、SFである必要があって、その制約をつくりだすのに苦労した。

■もう少し、サクラの心情、アキツキの心情に変化を見つけるべきだったろう。
 舞台背景、世界観の説明は、極力省いた。SFであるが、SF的解説は、野暮だと思った。
 相変らず、70枚ほどにまとめる予定が、膨らんだが、骨格をいじることは無かったので、苦労は少なかった。しかし、日付の管理と月齢計算は、手間ばかりかかった。
 その他、こまごまと苦労したが、書きあがってよかった。

短編「越冬」作後贅言 2009/01/26

■この現代における野宿者への同情など持たないし、彼らへの興味も、だいたい薄い。
マス・メディアによるお祭騒ぎが忌々しくて書き始めたものの、書き続ける意欲を持つのは困難であった。 マス・メディアの軽薄さは、すでに描くべき価値を持たない。
ああいう「どうしようも無い連中」を、どうしてくれようか――という尽きない議論に対しては、無力感ばかりになった。
江戸時代も然りだったと考えられるから、発想しようがない。
■突き詰めると、働きたくないもの――つまり生きようとしないものは、見殺しにするほかは無いが、その事実をそのまま受け入れることは政府には出来ず、結局、阿呆どもの跳梁跋扈を許す結果になる。。。そういう構造を、書けばよかったのかと、いま思った。
作後贅言を書き忘れていたのは、とりあえず、そういう彼らへの興味が薄かったためであろう。
「阿呆どもをどのように殺すか」ということは、むしろ考えるべきであったので、これからそれを考えるとしよう。 言うまでもないことながら、基本的に人間はいずれ死ぬ。 それを前提にしての「殺すか」という議論なので、勘違いせぬよう。

この現代に歴史小説を書こうという白痴 2008/12/11

■歴史を教えるというか、覚える必要はあるんだろうか?
 日本史・世界史嫌いの人がよく叫ぶ、「歴史なんかを勉強して何の役に立つんだよ」と言う文句。
 あたくしは、歴史小説を書こうというくらいなので、歴史が大好きで、江戸時代に生まれたかったと思ってるくらいなので、そう叫んでいる奴を、「ああ、白痴ね」と眺めていたのだけれど、考えてみれば、「何の役に立つか」と問われたとき、鎌倉幕府が1192年にでけた、という暗記項目など、クソの役にも立たない。 ふとした会話やクイズ番組で、気づく「恥ずかしさ」が、せいぜいではないか。
■司馬遼太郎「街道をゆく・本郷界隈」の中で、水戸黄門さまが「大日本史」の編纂を始めたに関して、「昔の人間は歴史なんて知らなかった」「大日本史以前にある歴史書といえば、六国史くらいなもの」とあって、最初は、「また司馬遼が何を言ってんだ」と腹が立ったけれど、ああ、でも、そうかと、やがて納得してしまった。
 思い返せば、先のタイ旅行も、首相府方面は、同時刻にすさまじいクーデタで騒然としていたはずだが、市内は平穏、若者は着飾っておしゃれに闊歩しており、おっさん、おばはんは、薄汚い屋台で、ラーメンをもりもり喰っていた。 けれど、おそらく歴史書には、「バンコクでクーデタ、首相府占拠」と書かれるはず。。。と来ると、たとえば日本の本能寺だって二二六事件だって、さすがに現場じゃ盛り上がりまくっていただろうが、地方へ出れば、「はあはあ、左様ですか」とぼんやりしている連中ばかりだったろうと思われる。 同時刻でさえこのとおりなのだから、昔のことなんて、意識するだに途方も無いことだったに違いない。
 国史ちゅーのは、考えてみれば、「国民としての団結」「国としての誇り」要するに「国に関する意識」をはぐくむために成立したものであり、古事記、日本書紀がつくられたのも、まさにその理由。「諸豪族が好き勝手な歴史を言い始めたので、おいどんの天皇が一番偉いんだちゅー、国家としての統一見解をつくらにゃならん」ってな宣言で、古事記は始まっている。
 したがって、そういう国の団結方面へ含まれない史実は、だいたい「雑学」の範疇である。
 ……と、ここまで書いたところで、支那大陸の歴史作法は、若干ちがうかも……と首が傾いた。 支那の方は、王朝が倒れた後で、次の王朝が前時代を総括する、という方法を取っていると聞いた。 歴史が完結したから書ける、ちゅーことか。 まあ、いいや、支那の歴史作法については、知識不足なので、深入りしないで、「国家の成立と歴史作法」に戻る。

■そもそも何でこんなことを考えているのかといえば、このごろ「何をどう書いたらよいのやら」と、途方に暮れているから。
 大好きな歴史小説を書きたいのだけど、あたくしの好きな人が、柳生十兵衛すら知らないことに愕然、剣豪といえばギリギリ宮本武蔵しか知らぬ、というおつむに、あたくしの根性は「知ってる人だけ楽しめれば良いじゃん」といえるほど熟していないので、はてこの現代に歴史小説ってどうしたら良いの? と煩悶しつづけるばかり。 考えてみれば、あたくしだって、その昔は常識だったに違いない、塚原ト伝や岩見重太郎の名前にピンと来るものがないわけで、柳生十兵衛だれそれ、の人にも驚くべきじゃないわけだ。
 江戸時代の人間――これが、あたくしの中じゃ理想の人間像なのだが、彼らだって、歴史に関してあきれるほど無知だったに違いない。 ちょうど読み終わった「想古録」という、江戸後期の伝承類を集めた本にも、大した歴史は登場しない割に、唐突に、伊達政宗公は――なんて出てくるあたり、「昔、こういう偉い人がいた」という雑学の域を出ていないだろう。
 歴史を通じて国民団結、地域連帯――などという意図が無ければ、歴史なんてものは、ほとんど学ぶ必要のないものかもしれない。
 (そこで、得意になって歴史を罵るやからを、白痴と呼ぶことができる気がしてくる)
 むしろ、これこれの苦労をしたとき、だれそれはこう処した、というような小話にこそ、意義があるのではないか。
■といったところから、歴史小説志望者は考える。
 あたくしの確信、人生には物語が必要――というところについて言えば、歴史は、史実である必要がなく、「柳生十兵衛を知らない」人にしてみれば、歴史もファンタジーもSFも同じである。 無論、他人の人生を知ることは、それだけ人間が豊かになることであるから、それが歴史の一等大事な意義であろうが、日本史についていえば、漢字ばかりで厳しく、近寄りがたいから、ファンタジーより損だ。 昨今、歴史時代小説といえば、「剣客商売」めいた、ファンタジー人情江戸時代ばかりで、それなら現代を舞台にしろよというものばかり。 そうなっちまうのも分かるけれど、まあ、そんなものは、ファンタジー小説と同様、一顧くらいの値しかない。
 すでに存在している読者の歴史知識を借りることができる――という利点も、柳生十兵衛を知らない人が増えれば、「柳生武芸帳」でさえ絶版になるほかない。 そもそもあたくし自身、本能寺の変を焼き直すとか坂本竜馬を増殖させることには、興味が向かない。
 んじゃ歴史小説なんて、どうするの? 
 と途方に暮れるが、やはりここは、「史実だと言い張れる説得力」が、歴史小説の大きな武器だというしかあるまい。 だから逆にいえば、「こういう事実があった!」という力強さを伴わない時代劇は、現代においては、どうしたってファンタジーに過ぎないなので、やっぱり、見るだけで物寂しい。
 というわけで。
 あたくしの歴史小説では、「歴史の持つ説得力をパクりつつ、歴史物語といえどもファンタジーなのだ」という立場に立って、進めるしかない気がする。 ファンタジーというが悪ければ、フィクション。 
 歴史実録といったところで、小説なのだからフィクションになるのは当然、それをさらに飛躍させてファンタジーだと開き直る。
 しかし、その題材を選ぶ際に、あたくし自身が、ファンタジーだ何だと頭をひねくりまわす必要までは無い。 歴史をパクり、その説得力をパクれば良い――パクりきるためには猛勉強しなきゃいかんのが、面倒くさいところではあるが、すでにあたくし自身の中で、歴史は死亡しているのであり(ちょんまげ結ってないし、着物だって自分じゃ着られない)、よっぽどの覚悟がなきゃ、死者の蘇生などかなうものじゃないのだ。
 んでもって、ファンタジーだと開き直れば、誰も知らんような歴史を拾ってきて、それをもとに小説を書くことも怖くないし、どの程度の歴史常識を書き込むかについての基準も、おのずと判然とするだろう。
■先ごろ書ききったロビン・フッドの中編。
 現代のフリーターと重ね描きにやれたら、と思い「歴史」を書き始めたのである。
 これが成功していれば……と今じゃため息ばかりだが、少なくとも現代においてすでに死亡した歴史を書いてみる意義は、そのあたりにもあるかもしれないと、感じ得た。
 歴史と現代を、重ね描く……死者蘇生術の一かもしれん。
 先の奈良旅で、「すでに死亡した歴史について何を書くの?」と途方に暮れたが、もともと歴史は死亡した連中の話、さらに江戸時代だって、歴史は死亡していた――と思い至ることによって、ちょっと元気になった。

直木賞「吉原手引草」読書感想文 2008/10/02

■久しぶりの時代小説直木賞で、「よく調べられている」「意欲的」とか、評価が高かった気がするので、読んだ。
 久しぶりの時代小説直木賞……と思いつつ一覧表を見たら、時代小説が2002年の乙川優三郎以来とは、たいそう悲しい。
 というわけで、「吉原手引草」。
 見えない主人公が、江戸吉原のいろんな人に、いなくなった花魁について聞き込みを行う、というもので、全編が登場人物の会話のみで構成されていた。
 作者は、歌舞伎方面の人らしく、作中の話し言葉、考証にまったく危うげが無かったのは感心したけれど、そこは小説として「前提」であるわけで、それを取っ払った中身は、全然たいしたことなかった。
 引手茶屋のおかみやら、楼主やら幇間やら、吉原の作法を喋るの「手引草」は、何でこれを喋ってるの? と思わせるようなものばかりで、読者に作者の雑学を披露しているだけじゃねえのか、という勘ぐりもしたくなった。
 というわけで、これを読むのは、「参考資料としては大吉」しかし「小説としては、カス」というのが、あたくしの読書感想文。
■そういうわけで、あたくしはやはりこれから時代小説に挑む心なんだけれど、久しぶりに吉川英治を読んだら、泣きたくなった。
 どうにか近づかねば。

ファンタジー長編「この青き闇を」作後贅言 2008/09/29

■1年と1ヶ月。
 ロンドンで書き始めた当初は「気分転換がてら、年内に書ききれる中編」を予定していたのに、気がついたら、年をまたぎ、国をまたぎ、470枚の長編になっていた。 
 これはまあ、何と言うか、例の如し。
 友人たかのから、世界設定をもらったが、最終的には、ほぼ関係なくなった。
 ファンタジーに挑んだのは、「ナツメグ・シフォン」以来、「キャラクターを如何に、生き生きと描くか」ということを達成したかったためであるが、今回は、それより、物語がどのようにおもしろくなるか、どのように波瀾万丈にできるか、ということを考え、考えあぐねて一年を費やしたと言える。
 とはいえ、要するに、「人物」であったと思われる。
 人物それぞれが人生の目的を持ち、それぞれが、勝手な思考に基づいて動く。
 それが、物語の核(今回は、青闇石という魔石)の周辺で、右往左往しつつ、最終的に一つの結末へ向かってゆく――ということを、描きたかった。
 これが後半、自覚できたために書き直し、えらく苦労したが、これが自覚でき、この断片だけでも摑み得た気がしているのは、非常な成長であると自負できる。 えがった、えがった。
■もっとも、欠点は多い。
 複数人物を活写するため、人物を入り乱れさせたが、このために文章が、最後まで、定まっていない。
 これは、「二十一」時代から抜けぬ悪弊であろう、作者としての腹が固まらぬゆえに、物語がぶれ、人物がぶれ、結局、文章が固まらなかったかと思う。 要するに、全体の文章が、たどたどしい。
 従って、現状の筆力では、主人公ひとつの視点に整え、書いたほうがよかった。
 今回は、いずれは成功させたい、複数人物の物語となったが、まあ、これはこれで捨てるべきではない。
 とりあえず、今回つかんだ(気がする)ことを意識しつつ、もう少し、吉川英治を読み込みたい。
■ちなみにこれは、ここには載せないけれど、4年ぶりに「ナツメグ・シフォン」が一次通過したスーパーダッシュへ送る。せめて二次越えしてくれないと、4年間が水泡。。。あわわ。 
 それからタイトルは、もうちょっと考える。たかのさんにお願いしてみよう。。。

■で、続いて、文研に出したロビン・フッドを広げている。
 文研で50枚程度だから、いくらか削り、あと20枚加えて、これまた3年ぶりくらいに、九州さがへ送る。
 短編に期待される「ドンデン」を何とか付けられるよう、努める。
 以前から、素人が「ドンデン」なんて書くべきでないと思っていたが、そろそろ挑んでも良いのではないかと。

「個人主義」の日本と「集団主義」の西洋 2008/08/08

■先ごろの欧州旅行に同行した、ドイツ文学の教授が、「日本人は集団主義で、西洋は個人主義だというが、自分は正反対だと思う」というようなことを述べて、なるほど、と感心した。
 実際、その通りである。
 ただし、そう言う場合には、双方の語義を明確にしなくてはいけなくなるので面倒、便宜的に、よく言われる、双方の文化が個人主義・集団主義であることと、実際とは、実は逆さまである、ということにしておく。
 ……贅言、そうとう長くなってしまったけれど、まー、久しぶりの更新だからキニシナイ。

■ロンドン滞在中、Darren Hayes のライブコンサートへ出かけた。
 熱烈なファンが多く、さすがオーストラリア最強の歌手だと思わせたが、ライブ会場が、日本のライブ会場と大きく異なって「一体感が薄い」ように思われた。 観客の、曲に合わせての手拍子や身振り手振りが、全然、持続しない。 盛り上がりに欠けるから――というわけでは決してなく、失神する人もいたし、ファンの悲鳴は最後まで止まなかった。
 しかし、それにもかかわらず、「会場の一体感」は、薄いのだ。 小さなライブハウスで、歌手との距離は非常に近かったが、歌手の煽る手拍子は長続きせず、会場がひとつになって左右に揺れたりすることもなかった。 これが日本の場合、ファンが一糸乱れぬ手拍子を、延々と曲が終るまで続行するのも珍しくない気がする。
 これを称して、「日本の集団主義」「欧米の個人主義」と言うのかもしれない。
 あるいは、有給休暇を大量に残し、しかも果てしなく日々残業する日本人と、勤務時間終了とともに立ち去って夏冬には長い休暇をとる欧米人を見て、
「みんなが働いているから帰れない」
「自分ひとりだけ楽するなんて」
 という日本人の意識に「集団主義」、そして西洋人の意識に「個人主義」を見ることは、容易である。
 けれど、どうしてこのような「集団主義」「個人主義」が現れるかを考えると、日本人が「個人主義」であり、西洋人が「集団主義」であるから、という逆転が成立する気がするのである。

■日本人の自我認識は、自分の外界――他者に依存しきって成立する。
 この説明は、面倒くさいので省く。
 他者を認識し、他者の反応を意識することで自我を獲得し絶えず更新する「私」の場合、外界の存在は各人にとって「主」になり、「私」の存在は、「私」自身を包括する世界の中にのみ存在する、「従」になる。 言い換えれば、外界――認識される他者が、自己存在を規定する。
「みんなが働いているから帰れない」
 という意識には、つまり、「『外界=働いているみんな』の中に、『働かない自分』を規定することができない」という根底がある。
 ――と、ここまでは、「集団主義」の説明である。
 しかし、ここで、
「なぜ『働いているみんな』の中に、『働かない自分』が規定できないのか」
 という疑問を考えるときに、その理由が、「個人主義」であるから、と言うことが可能になる。

■日本人の自我認識では、「働いているみんな」の中では「働かない自分」が規定できない――と言ったが、これは厳密には、
「『働いているみんな』」の中では『働いている自分』が既に規定されている」
 と言わなければならない。
 自我認識をもったとき、「働いている外界」を認識しているために、「働いている自分」が既定されている。 自我の認識構造それ自体が、他者認識に依存しているために、意識されている自己は、「働いている自己」以外の何者でもなく(あるいは、みんなが嫌々働かされていることを認識した上での自己認識なら、同じように、「嫌々働かされている自分」となる)、外界の様態そのもので自己は認識されているのだ(厳密に言えば、同じ会社であっても、同一人物じゃないから、様態は各人微妙に異なる。だが「働いている自分」の既定については大同小異)。
 これを脱するには、自分が、認識世界内で異物になることを受け入れ、自己存在の認識を改めるなり重ね描くなりすれば良いのだが、それが困難な構造が、日本人型の自我認識構造には、濃厚に存在するのだ。
 つまり、
「自己存在の認識の改変は、現行の自己存在の否定につながる」
 ということである。
 仕事を自宅へ持ち帰る、全人格的に仕事に向き合う、仕事のあとの強制宴会などの公私混同――という日本人の「勤勉さ」であるが、基本的には、自分によって既定されている自分は、他者(この文脈では主に仕事)によって規定された存在である。
 従って、残業地獄から脱するためには、この認識を改変し、自己規定してきた自己存在の様態を否定できるかどうか――という問題になるわけだが、結論としては、
「誰にとっても、自我の否定ほど嫌なものはない」
 ために、個々人が、成立させた自己存在に固執する日本人的自我認識の方法を、「個人主義」的だと言うわけである。

■逆に、欧米文化圏での、自我認識ではどうなるか。
 彼らは、(錯覚であるが)前提的に、自我存在は保障されている。 つまり、外界に依存することすこぶる少なく、世界の中で自己が異物化するときにも自我を改変=否定しなくて済む――ゆえに、欧米文化は「個人主義」だ、という結論でも問題ないが、自己が世界の中で異物化することを厭わないために、自我認識に関係のない外界の受容と外界への影響に鈍感になり、たとえば、風呂に入らなくても平気になったり、トイレの無いベルサイユ宮殿にウンコがコロコロしていたり、満腹になったらガチョウの羽でゲロ吐いて三日三晩喰い続ける、なんていう、他者を思いやる日本人的には不潔極まりないことにも、頓着しなくなる。
 彼らといえども、もちろん、彼らの自我が毀損されることには、徹底的に反抗する。
 それが彼らの「権利意識」であり、権利の否定には猛烈に反発するものの、自分の「権利=自我」が否定されない限り、彼らは万事、温厚かつ従順になるのだ(実際は外界に無頓着なだけ。しかしたとえば、鯨を崇め奉るような環境保護テロリストは、捕鯨が再開されれば彼らの自我が否定されるために、猛反発するのだ、理論もクソも無く)。

 集団においては、大なり小なり、問題がある。
 大問題(戦争とか環境破壊とか)はともかく、小問題(町の美観とかゴミのポイ捨て、行列を守るかどうかなど)に対しては、明らかに、欧米型の自我認識方法が、感情の整理が容易だ。 感情の整理も何も、彼らは真実、「気にならない」のである。 つまり、西欧の認識方法は、集団に適応する(実際は「適応」などしていない、単に外界を無視する)能力に長けており、これを「集団主義」だと言うことも出来るだろう。
 日本型の自我認識をとると、「外界の毀損すなわち認識される自我の毀損」になるため、小さな問題についても、各人は各人の自我認識に従い、非常に敏感な反応をしてしまい、「個人的に」反発することになる。

■要するに、欧米は「集団主義」であり、日本人は「個人主義」なのだ……とはいうものの、見てきたように、日本型自我認識、欧米型自我認識、どちらを個人主義、集団主義と名づけても別に、どーでも良いのだけれどネ。

■ところで、日本型の自我認識によれば、明らかに、「全人格的職業」こそが、幸福をもたあらすことは明白である。
 職人、医師やコック、作家など、いわゆる「手に職」の人生つまり「あなたは何者か」の問いに、職業で答えうる人間こそ、他者依存する自我認識構造に適ったあり方であり、さらに、会社人間と蔑視されようが徹底的に会社の業務に諾々と従属できる者もまた、幸福な生き方であると言える(無論、「嫌々従事させられている」のは論外である)。

「ロビン・フッドと法学士」作後贅言 2008/06/05

■英国滞在の成果――というには不足だけれど、英国滞在中に感じ取ったことがらを書き込み、まとめた。 これは文研OB雑誌に載せるもので、久しぶりにテキスポとは関係ない。
 この短編では、欧米人の「独善的な断定」のみが強調されてしまったが、もう少し書き足して、中編に仕上げる予定である。 マグナ・カルタ前後を描き、「権利意識の呪縛」を書き残さねばならない。 そういう意味では、この短編は、予定の前半部分。 この短編の3年後、マグナ・カルタ成立前後が、本編部分になる――とここに書いたから、頓挫するかもしれない。
■全体的に、抑制のとれた文章ではないだろうか。 このくらいが、あたくしに適した文体なのかもしれない。 
 資料として、ロンドンで購入した"1215, Year of Magna Carta" という本を用いた。 さまざまな発見があり、たとえば、当時のイングランドは国土の三分の一以上が森だったが、基本的に「森」は王有地で、勝手に木を伐ったり、獣を射てはいけなかった。 しかし、国土の大半が森なのだから、民衆は平気で伐採したり、鹿狩りを行っていた。 が、ときどき、「森林監督官」というような奴が巡回してきて、ビシビシと反則金を徴収していたらしい。 国庫がさびしくなるたびに監督官を派遣して、罰金徴収を行っていた、というような事例があり、非常に不評だった。
 そういうわけで、ロビン・フッドのような、勝手に鹿を殺し、役人を懲らしめる悪党が、人気者になって行ったらしい。
 森林伐採の違反金で国庫を回復させるってあたり、昔は「税金」という制度がゆるかったのか、あるいは、「何かの見返り」以外に、金を支払うことはなかったのか。 権利意識を把握する上で、中世イングランドの税制も調べる必要がある。
■ほかに、中編にするにあたり、一箇所ないし二箇所ほど、人間的な描写を加えて、魅力ある人物をつくりたい。 また、女が登場していないので、アクトン・グリーンに恋人を配置する。
 ちなみに、アクトン・グリーンというのは、ロンドンの地名だ。

芥川賞「アサッテの人」読書感想文 2008/05/19

■ようやく、昨年9月の文藝春秋を取り出して、芥川賞「アサッテの人」を読んだ。
 ここ数年の芥川賞では、一番しっかりした日本語遣いだと感じたけれど、それでも文章全体が上っ面で、フワフワした感じを受けたのは、こうなると、もう、ワープロのせいだと思いたくなる。
 それから全体が、退屈であった。
 変り者の叔父についての分析が、面倒くさい技法を用いて、延々と続いているが、作者自ら「最後のカタルシスは無い」みたいなことを書くくらい、退屈。 「叔父の日記」からも「妻の手記の再現」からも、地の文と同じ作者の作為臭を感じ取ったが、それについても、「影響されたことを否定できない」と弁明を書き込む周到さも、退屈に思われた。 
 そもそも、生きることの困難、といった主題自体、興味ない。
「ポンパ!」
 と唐突に叫ぶことなどの奇行も、あたくしは全然気にならなかったから、そもそも読む必要はなかったのかもしれん。
 むしろ、それに拘泥し続ける妻の心理が気になったが、そこはそれ、本筋とは関係ない。
 ただ、これほど退屈な小説でも、文章がしっかりしていたから、読みきることができた。 ヘンテコ技法も、文章が救い。 ただ別に、褒めるほどじゃない。
 そういうわけで、「相対的に選ばれた」作品なのだろうな、と想像したけれど、絶賛している詮衡委員が多くて、ああ、まあ、褒めようと思えば、変り種であることは確かなので、褒められるわな、とも感じた。
 それにしても、詮衡委員が、昔の委員にくらべて、小さなことしか言わなくなった気がする。 みな、自分の趣味の次元でしか、語っていないんじゃないか。 究極的には、どんな意見分析だって個々人の趣味嗜好に寄るわけだが、それにしたって、厳然とした文学基準を持たない委員なんて、要らない気がする。 作品の程度が低いのは仕方ないのかもしれないが、委員からして、底が浅いように思われる。

ポエミィ「さびしいあなたに」作後贅言 2008/05/12

■ポエミィというのは、ポエムっぽいもの、という感じで適当につけただけだけれど、検索したら、そういう意味でも使われていたし、魔法少女ポエミィちゃんが出てきたから、笑えた。
 まあ、何でもいいや。
■近ごろはテキスポ企画ばかりだけれど、これも相変らず、テキスポ企画「オレオレ詐欺メール大賞」のために書いた。 500文字という制限であるのに、書き上げたら、1500文字を超過していて、途方にくれた。
「……」を削除して単なる改行にするだけでは到底足りず、泣く泣く、おもしろいと思われる部分も削除した。 絶対に削除できない後半の性交部分だけで300文字を超えるので、もう、どうしたらいいのだと、怒りすら覚えた。
 http://texpo.jp/texpo_book/toc/1421/
 ここに苦労の果てがある。文字だけを数えて497文字。
■テキスポ。
 所詮はネット小説クラブなのだけれど、企画ものは、おもろい。
 それから下で書いた短編「ロビン・フッド」。 たぶん書きあがって、文研OB雑誌に載せられる。 ロンドンから引き続いているファンタジー長編も、辛うじて、あきらめずに続けられている。 この長編については、いつもの「進歩」が感じられている。 複数の人間が、それぞれの意向で動くうちに、全体としてひとつの結末に収束してゆく、という、あたくしが書きたくて書けなかった長編作法が、おぼろげに、構成され始めている。
 よしよし。

「皆様のNHK地域スタッフ」作後贅言 2008/04/28

■再び、日本での生活。 可能な限り、小説を書きたいと思っている。
 ここに計画を書くとだいたい計画倒れになるので書きたくないのだけれど、とりあえずこれから、格闘中のファンタジー長編を仕上げつつ、文研OB雑誌のための短編「ロビン・フッド」を書きたい。
■で、「皆様のNHK地域スタッフ」小説。
 相変らずの、テキスポ企画に乗った短編。
 参加者数が少ない気がしたので、書いたのだけれど、意外と参加があったので怖くなっている。
 テーマに従え、ということで、テーマ「NHK」「カバ」「ダイス」「鉄火巻き」と睨めっこした。
 当初は、NHKで、カバとあだ名される中年男を書こうと思った。 それでとりあえず、主人公の名前を、神林猛馬にした。 果たして何と読めるのか不明だけれど、とりあえず主人公を、かばやしまうま、に定めた。 中年男が痴漢をして逮捕される、という案もあった。
 NHKドキュメンタリで、カバについての放送をする、弱気な痴漢、カバ。 そういう小説にしようと思ったが、今ひとつおもしろくなかったので、さらにしばらく調べると、「地域スタッフ」という職業に行き当たった。 説明を読むと、給料は高いし、時間には縛られないし、ちょうど、主人公神林が大須賀に魅了されるように、あたくしも魅了された。 だから、これについて書いてやれと思い、その職業の紹介を書いたら、小説全体が、それだけになった。
 そのため、後半が、弱い。 実体験が無いことも大きい。
 後半、大須賀と再開して神林の心が病む過程。 そこもしっかり書き込みたかったが、原稿用紙30枚制限で、あきらめた。 牧火との電話やり取り、訪問先での罵声とマニュアル対応、仕返し。 そのあたりの、むなしいやりとりを描くには、30枚では足りなかった。 「地域スタッフの紹介」という小説の軸足をやめ、就業のむなしさを訴えても良かったが、前半の大須賀がうまく描けたこともあり、やめた。 牧火、訪問先とのやりとりも錯綜させるには、どうしても、30枚では足りない。




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