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++ 作 者 贅 言 ++

みなみやま】【作者贅言跡地
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2007/4/9 「夢の模索」作後贅言

■「夢の模索」は、ロンドン生活へ入る前に、東京で書き上げるつもりであった。
 屍ばたらきに忙殺されずに済んだと思われる東京生活の終盤であったにもかかわらず、思うように小説が発想できず、書き始めたものをすべて放擲するということを繰り返していた。 書くべきことが無いのである。 「恋愛模様」にせよ「拡大傾向」にせよ、書く時間は取れたに違いないのに満足ゆくものにはならなかった。 短編を気晴らしに、長編に熱中してきた近頃であるから、「気晴らし」の程度が高等なものになろうはずが無いにしても、ひどいものしか書くことができない。
 書くべき対象を見出せないのだ。
 時代劇にせよ現代にせよ恋愛ものにせよ、描くに値するものが無い気がしてならないのだ。
 現代世界において、人は自己肯定にのみ集中して無目的に生存を続けている、と私が世の中を甘く見ているために対象が消失しているということがあるのかもしれないが、少なくとも私は、自己肯定のための物語を書くことができない。 技量の問題もあるだろうが、意欲がそもそも生じない。 肯定を放棄して、無目的な生存に娯楽を提供するとした場合には、小説ほどまどろっこしいものは無いと思う。 過去の小説が主題としてきた、人間形成にまつわる他者とのかかわりにおける諸問題についても、私は、哲学方面から構造を捉えてしまった(と、少なくとも思い込んでいる)以上、それを小説という不便な方法で模索する意欲が起きないのである。 
 要するに、書くべき対象が無い気がしてならない。
 私が現代作家の小説を、ほとんどうんこ並にしか感じられないのは、書くべき対象、主題、事象を消失した現代社会を描いているためではないのかと思う。 描くに値しないものを描いたところで、そこに何の価値も無いんじゃないかと。
 それを、「夢の模索」で、本当に模索しながら、並べてみたわけであるが、これを書いている最中に、私は、根本的なことに気づいた。
「ああ、模索すりゃいいのか」
 結論が見つかっていて、何を描くべきかが決まっているなら、そのことは、的確な言葉で論文にすれば良い。 そうすれば誤解も無いし、読者、作者の時間の節約になる。 
 けれど結論が無い場合、模索せざるを得ない場合、迷っている場合、そういうのは、現代においても文学になるのではないか。
 現代の文学なんつって、虚無だとか、自己肯定だとか、孤独だとか、そういうのは現代における「前提」であって、主題に据えるべきものではないんじゃないか。 そこからどうするか、その次元に立っている人は、いったいどうあるべきか、どう生存するべきかということを思考することが、現代における文学なんじゃないだろうか。
 といって、現代の孤独や偽善、自己肯定といったものを裏返しにした主題で、はい満足な結論――ってな話には価値を見出さない。 じゃあ、どんな結論なら満足するんだってな話になるが、
「それを言葉に出来るんなら、哲学論文を書いておしまいにするさ。 わざわざ小説なんか書くかボケ」
 と、そんなことを、「夢の模索」を書きながら模索していた次第。 ロンドン生活で小説を書くかどうかは決めていないけれど、まあ、これまでに区切りをつけることができた一作かもしれない。 とはいえ、出来は、良くない。

2007/2/27 「恋愛模様 福山春音」作後贅言

■ああ疲れた……。
 何か、久しぶりに恋愛模様的なものをやってみようじゃないかと思って、要するに主人公の淡い恋心を綿々と書くっちゅー、あたくしの性癖に沿った恋愛物語じゃなくて、淡い恋心発生からそれが結ばれる直前までのウキウキした感覚を書くっちゅー、まあ、これもドンピシャであたくしの好みであるのだけれど、まあ、とりあえず疲れた精神を癒すにはこれしか無いだろうと思って書き出したものではあるのだけれど、まあ、あれだ、疲れた。
 屍ばたらきによる精神の死滅。
 これが理由だと言いたくはないが、あたくしの感覚が磨耗しているのは慥かだ。 贅言であるから贅言を述べれば、配偶者の存在も一因と言うことはできる。 精神的なものを的確に切り出すためには意志の鋭敏さを持続させる必要があるだろう。 生活によって文章が死ぬということは、あるかもしれない。 少なくともこれを自覚せねば、死ぬ。
 ↓芥川賞の感想で、現代人の不安定な心情をただ書き連ねるという手法に嫌気がさした旨、書いた。 その割に、「恋愛模様」のような、ぬるい、小編を書いて喜んでいるではないかというのは、当らない。
 あたくしが思うのは、若年世界が他者・外界と接する最大の契機は恋愛であるということで、ここは非常に「劇的」であるし、描かれるに値すると思われる(根本的に万人向けの娯楽ってわけでもあるし)。 一方で、別に恋愛でなくても、他者との関係構築を敢えて遮断している状況――自己肯定の殻に閉じこもった状況など、幾ら描いても仕方が無い。 それが破れる瞬間こそ描かれるべきだが、↓などは、その状況たるべきことがらが最後に付け足されるだけである。
 話がやや逸れた。
 とりあえず、名前を考えるのに、疲れた。
 その挙句に、春音、郁乃は、まあまあじゃねえのと、自己満足している。 「森沢先輩」というのは、「苗字」で検索をかけてみて最初に登場した苗字を採用しようと決めていたところ、「盛沢山の」という言葉を見つけて、「沢山…盛澤…おう、森沢にすっべや」と決めた次第。 春音、郁乃は、ふと浮かんだ晴美だとか幾恵とかいう名前の一部を取り替えただけ。 その他の人名は、適当。 春音の苗字福山は、全部書き上げてから、地図検索mapionから適当に場所をクリックして、そこにあった地名。 愛媛県のどこかだった。
 始めは、森沢への思いを胸に残したまま卒業を見送ろうとしていた春音が、最後にスターバクスで告白されるという筋を想定していた。 題名は「遅いバレンタイン」とかいって。 けれど毎度似たような恋愛模様が、やっぱり毎度と同じものになりそうであったから、やめた。
 森沢先輩の描いている絵は、GEISAI#10で見つけた、渡邉陽平さんの絵である。 あの人の絵は、あたくし、今でもずっと欲しいと思っている。 描きまくる性格の森沢先輩は、何となく、あたくし自身を肯定しているようで嫌らしかった。 その意図はあまりないが、作者の自己肯定が入ったことを否定しない。 ひどいね。
 それにしても、文章が悪い。
 全体的に“また”低調になった。 「前夜」以降、ちょっと良くないと自覚している。 というより、屍ばたらき以降、ほとんど良いものが無い。
 なお、今回、最後以外は「20×48」で書いている。 短編であるし、展開に序破急があるわけでもないから不要かもしれないが、読みやすい区切をつけられたように思う。
■そうそう、本来ならぼちぼち、「遠山の金さん」&「逃亡者おりん」という時代劇が完成している頃だと思われるのだけれど、調べれば調べるほど、その時代の人間模様がおもしろくなってきたので、当分取りやめることにした。 長編にしたい。 水野忠邦の天保の改革、鳥居甲斐守、遠山左衛門尉、阿部正弘、水戸烈公、それからロシア、オランダの黒船……全部が入り乱れているから非常におもしろい。 しかもその頃は、密偵の暗躍がものすごいのだ。

2007/2/26 芥川賞「ひとり日和」感想文 

■一人称が上手だと思った。
 情景が春夏秋冬に応じて丁寧に描いてあり、盗癖や家の窓から見える駅の様子というのが効果的であるという評には、納得が行く。 とりあえず、お上手であることは間違いない。
 が、それだけだとも感じられた。
 フリーターの不安定な心情がうまく描かれていて、それが社員寮へ移って他者とのかかわりが始まるという結びまで、丁寧に、効果的に描かれているわけだけれど、これが描かれて何さ、という疑念は捨てきれない。
 フリーターの不安定な心情、他者とのかかわりが苦手な現代人を描いた、というときには、文句ない。 だが、それが何だ、というときには、何も無いのではないか。
 選者の山田詠美だったかが、「退屈」といったのは、まったく、そのとおりだと感じた。 読みやすい文章である上に、出来事が無くてつまらないということは決して無いのだけれど、描かれる人生が退屈なのだ。 作品に瑕疵はあまり見当たらなかった。 きれいだ。 しかし、根本的に退屈。
 こういう小説に飢えている読者は多いかもしれないが、結局のところは、何のこたァ無い、と感じさせる一編。
■あたくしの哲学の師匠のN先生からのメールに、このごろの学生像として、
『自分そのものに何の興味も関心も持てない人間像が浮かび上がってきて、それはそれは、背筋も凍る思いをさせられます。それがまた、単なるチンピラ風情ではなく、ごくごく真面目な普通の学生というところが、その思いを倍増させています。こんな生き方しかできない者の「存在の感覚」「生存の目的」とは一体どんなものなのだろうか、とつくづく底無しの暗闇を見る思いで考え込んでしまいます』
 ってな話があって、果たしてこんな現代に何を描くべきかという疑問はつきまとう――その中で、今回の芥川賞はこれを「適切に」描いているとは思ったが、まあ、それが何なんだ、となると、まったく駄目というしかないのではないか。 瑕疵が無くお上手であるから芥川賞おめでとう、という流れは明瞭であるが、つまらない。

 2007/2/13 覚え書き

■例のごとく、「悪霊退散長編!」を、20×48区切りで書き続けているのだけれど、ここに来てようやく気づいたのは、
「20×48で続けると、余裕が無くなりがち」
ということで、いやもう、何を今さらという話ではあるけれど、「この区切りまでに、これだけは書いておきたい」ということがあると、どうしてもそれのみを目指しがちになるので、ちょっとした小ネタ挟むことを思いつきにくい。
 もっとも、小ネタの程度によっては「蛇足だ!」と言って切るべき場合もあるので、一概には言われないけれど、少なくとも読み返したときに、小ネタなり分りやすさの修正を挟もうとして、20×48の区切りを超過することを躊躇してしまうのは、確かだと、昨日、おもろげな小ネタを思いついたときに、感じた。
 まあ、これに気づいたので、これからは余裕を持って、20×48を続けることにする。
■週末に、映画「イノセンス」の特典DVDを見た。「イノセンス」DVDは2度か3度は見ていたが、これまでに特典DVDの方は見ていなかったらしく、目新しかった。
 その中で監督の人が言っていた、
「現代人における、身体(感情)の欠如」
「身体の象徴としての犬(動物)」
「それの裏返しの人形」
 という3点が、なるほどと思わせた。3点のうちの最後の1点については、まあどっちでも良いかしらと思ったけれど、「身体性の欠如」の中で、宮崎アニメはこれを復興させようとして例えば「トトロ」や「千と千尋」を推し進めて大衆の人気を獲得して、押井アニメの方はこれを前提として映画をつくって、つまり「感情的な人間の登場しない硬質なアニメ」を作成して、大衆からは不気味がられ、オタクたちから狂信される状況にあるというような話は、なるほどと感じた。
 それからもう一点。
 押井アニメの中では、感情的な、つまり「人間的な」人物はほとんど登場せずに、みんな「観念」として登場しているんだそうで、これも、なるほどそういえばそうだなあ、と感じられるとともに、そういう物語・人物作法も許容されるのかと、目から鱗が落ちた。
 もっとも、こういう人物造形はだいたい失敗するので、なかなか難しい。
 自分の長編がどうしてこうも破綻しているんだろうかと、常々考えているわけだけれど、様々の人物が、中途半端に観念的且つ中途半端に人間的に描かれてしまっているのかもしれないと感じられた。うまくできた短編を思い起こしたりしてみると、あたくしの得意は「皮肉」にある気がして、それをうまく生かさなくちゃ長編も成功しないぞと、怯えが来る。皮肉を的確に現出させるにはある人物を冷めた目線で眺めなくちゃいけないわけで、中途半端に感情的な、人間的な人物像を描こうとしても、あたくしの個性としてはどだい無理な話であったのかもしれない。
 そうも思って、「悪霊退散長編!」で小ネタを挟もうという段へ回帰する。
■再び「イノセンス」の話で、アニメの映像が「綺麗」と感じるのは何故か。
 現実の、つまりそこら辺の風景写真の方が、明らかに情報の密度は濃いにもかかわらず、細密描写を施したアニメが「より美しい」と感じるのは何故か。
 一つには、無論、絵画手法によって美化された風景ということがある。
 しかし、もう一つには、現実世界を認識する際に必然的に起こる、視覚情報の取捨選択に拠るのではないか。つまり、現実世界を認識する際には、我々は、不要な細密描写を排して、何物か、もっとも必要とする対象に特化して、視線を集中する。だがアニメの場合は、画面全部が視覚情報として認識されるために、細密描写がすべて細密描写として知覚されるために、より美しく感じるのではないか。これのために、現実世界を写した映像がアニメの映像に劣って見えるのではないか、と妄想した。

2007/2/2 「拡大傾向」作後贅言(思い出し) 

■「拡大傾向」を書いた直後に記した贅言が、手違いで消失してしまったので、ここに思い出しつつ書いてみるけれど、まあ、どうせ大したことは書いていないので、まあ、いい。
 とりあえず、数字の際限の無いことには愕然とする、と書いた。 数字には果てが無いのだ。 その一方で、感覚の上では差異にならないような一という違いが、数字においては画然と異なるということも、すさまじいものだと感じる。
 要するに、この二点を念頭に置いてものごとを論じようとすると、人間としての充足は消失してしまうに違いない、ということである。
 少し前にTVで眺められた、イオンやヨーカドーなどの大型小売店の出店攻勢の数字、数字、数字の恐怖と、非実体であるにも係らずものすごい、巨額の金銭を投ずる広告というものを書き込んでみたいと思い、書いた。 広告の話は書き込めていないから再挑戦しなくてはいけない。
 とりあえず、数字が拡大するだけの話である。 数字の羅列に意味はない。 語呂なんて考えていない。 あたくしの個人的な数字の好みが判読できるかもしれないが、数字を読む必要は無いと思われる(特に後半の桁の大きな数字は、コピー&ペイストである)。
 数字の上限を京にしたのは、それ以上は有名じゃないだろうと考えてのことである。 どこまで続けても良いのだが、まあ、そのくらいで。
■以上、こんな感じ。

 2007/1/9 年頭贅言

■平成19年始に思いついたことを、ここへ書きなぐる。 あたくしの個人的な脳内整理のため贅言であるから、稀有な読者でさえ、理解不明であるに違いない。

■曖昧な概念を、「曖昧な概念」という次元から一定の方向、性質に導くためには、言語化が必要である。
 要するにこの贅言は、何らかの感覚にせよ、象徴にせよ、対象物にせよ、万物にとっては存在が先か、言葉が先か、という話である。
 分りやすいように思われるのは固形物である。 ここから考え始める。 例えば、足元の石。 これは、
「石」
 という言語を獲得する前から、その、こぶし大の、灰色の、硬いような物体は、そこに存在していたのだから、存在が先である、と考えられるっぽいのだけれど、「石」として、その周辺空間から明確に分離した形で成立する(と認識される)ためには、「石」という概念が先に成立していなければならない。 あるいは、「こぶし大の、灰色の、硬いような物体」という言語化が先行的に無い限り、外部宇宙の一点としてのその石の存在は、受容者の認識には入らない。 ちょうど、ドラえもんの「石ころ帽子」のようなもので、「そこに存在しているのに誰からも意識されない」という状況になる。 その際に、受容者にしてみれば、「その石は存在していない」という認識状態になる。 ある対象を無を完全な無として成立させるためには、概念すら有していない状態でなければならず、一瞬でもそれが認識された場合にはそれは「無」ではなくなる。
 名前なんて無くても、存在は存在として、存在しているじゃないか。 ということは、科学的真実としては成立するかもしれないが、「認識されるか否か」という次元に於いては、認識時に他と切り離された存在としての命名が無ければ、存在は存在として認められない。 ただし、注意すべきは、この場合の命名とは、単なる言語化ではない点である。赤ん坊、猿、犬。 赤ん坊の自我意識は、自他の境界線を明確化させることから始まる。 「他者と明確に区別されるところに成立している、私」である。 にもかかわらず、赤ん坊が明確に「私」という自我意識を成立させるのは、おそらく、思春期になるまで、十数年も外部世界を認識し続ける必要がある。 自我意識を決定付けるのは、おそらく恋愛である。 話が逸れた。

■言語という知識を獲得していない時点でも、おそらく、赤ん坊、幼児でも、対象を、他と区別される存在として知覚している。
 区別。
 区別をする際には、知覚の対象を特定化しなくてはいけない。 ゆえに、区別によって、対象化を呼ぶ。 世界の中から抽出されたものを、他から区別するものは、言語ではなく、「他とは違う何か」という、認識あるいは「感覚的言語化」である。 要するに区別だ。 ゆえに、これは猿でも犬でも、有しているはずである。
 明確に言語化されていない感覚的言語を、言語としてここに抽出するのは愚かしいが、あたくし自身が言語的に把握している限りを表現すると、たとえば、猿の場合、バナナを「細長くて、黄色で口に入れるとうれしくなるもの」というような把握をしているに違いない。 あれ? そうだ、バナナを「把握している」と言うのがおかしいぞ。
 あっはー!
 つまり、「細長くて黄色で口に入れるとうれしくなるもの」という認識が先行的にあるのではなくて、目の前の対象物<バナナ>が、あれは「細長くて黄色で口に入れるとうれしくなるもの」だという知覚意識を呼び起こすのだ。 ああ、そうだ。 関係性が先行しなくてはいけない。外部からの情報が知覚を呼び出すということでなければいけない。
 そうすると、外部での存在が先行することになるかと思いきや、例えば視覚にしてみれば、漠然とした視界から何か特定の対象を絞り込むのは意識(無意識)の役割であり、その絞り込みを導くのは、過去の経験であり、要するに「対象化」が先行しているはずである。
 対象化。
 いろいろ書いたが、要するに、対象化をしなくては認識できないのだ。

■で、ここからが本題。 正月に2点、おもしろい話があった。
 その1
 恋人に縁遠そうな友人Sが、とうとう恋人をこしらえ、舞い上がっていた。 このとき、彼は「言葉で表現できないことってあるんだな!」と、心境を吐露してくれたが、この言い方。 陳腐すぎて鼻毛が伸びるけれど、陳腐になるほど各所で聞くからには、こういうことは無い、とは言えないだろう。
「言葉では表せられない、この気持」
 聞いた時には、これは何だろうと思っていたが、もはや明瞭だ。
 対象化されない「当の状況」にある場合は、当の状況にとって、それは言語化が不可能な状況なのだ。 要するに、二次元世界の人間に「世の中には高さっていう概念があってね」と言ってみることに似ている。 有頂天に舞い上がっている当の状況下にある者には、自己の状況を省みることが出来ない。 お。 すでに文句が状況を的確に言っていた。
 省みる。
 対象化するためには、振り返らなくてはいけないのだ。
 なお、対象化されてしまえば、その感情は終ってしまう。 対象化するためには、「当の状況」を一度、総括する必要があり、「当の状況」をそこで中断する必要がある。 それが、恋が冷める瞬間。 ……と言うと奇妙だが、冷めたあとで総括される、と言えば奇妙ではない。 いずれにしても、当の状況にある者は、その状況を対象化することはできない。

 その2
 恋に似た話で、ラジオのDJに熱中していたという友人M。公開番組でサインを貰い、もう、一生の宝物! というふうに感じていたところ、別の折に、友人と一緒に、前回よりだいぶ近い距離でDJの姿を見たところ、何かもやもやした気分になって、さらに同行の友人が、DJの容姿をまじまじと見て、
「微妙だね」
 といったところ、それを聞いたMさんも不意に、冷めたのだそうである。 今はもう、宝物であったサインもどこへ消えたのやら。 Mさん曰く「別に私はそうは思ってなかったんだけど、友だちがそう言ったから、何か、私も微妙って感じるようになった」そうで。
 つまり、彼を見て「もやもやした気分」になっていたところ、友人が「微妙!」という概念の箱で、もやもやした気分を方向付けてしまったというわけである。 「もやもやした気分」が的確に表されたと同時に、若干は残っていたに違いない魅力部分も消してしまった。 こうなるともう、微妙、という表現しか「もやもや」を言い表すことができない(このときに、「もやもや」を、「かっこいい!」と言ったところで、たぶん違いすぎるのでMさんは納得しなかったはず)。

■ここで、「もやもやした気分」が先行的に存在したじゃないか! という指摘は、正しい指摘で、まずは、「もやもや」があった。 しかし、「もやもや」を「『もやもや』という概念」で抽出するためには、「もやもや」という言語化ないし対象化が必要なのである。 その当の「もやもや」の正体は、ここで書くなら、眼球から入り込んだ映像が電気信号に置き換わり、それが視神経を通じて大脳に至り、過去のさまざまな男性の姿かたち、自分の理想とする容姿等の記憶関連、好きな男性像の記憶関連、好悪、性欲、その他もろもろの関連記憶のニューロンが刺激されて、成立する「もやもや」なのである。 それを、「もやもや」として抽出するためには、その「もやもや」が、他の知覚、足の疲労とか空腹感、寒さ、嗅覚、聴覚等々の中から突出するだけの大きさに育てられる必要があるが、その時点においては、別に「もやもや」として抽出される必要はない。 「何か、もやもやって気分だった」というのは、あとで言っていることである。
 で、その時の「もやもや」的なものを、的確に引き当てたのは、友人の「微妙じゃない」という言葉だったというわけである。 ここで友人が「誰か屁をこいた?」といったら、Mさんの嗅覚が急激に拡大するはずである。 現にほら、これを読んでいるあなた、今、目が疲れてるでしょう?
 ……と、言われたら、急に目が疲れてるように感じませんかねー。
 感じてないなら、そりゃ、疲れてないんです。
■とりあえず、対象化するためには、当の状況から脱する必要があるということを、年末年始に得心した。
 余談ながら。
 あたくしなども「人間」であるけれど、これを「人間」と対象化して呼ぶことが出来るじゃないか、と駁することはできる。 だけれど、これは「区別」が先行しているはずで、獣じゃない我々「人間」というしかないはずだ。 「恋」という当の状況にあっても、「何か幸せ」「彼女がいないとさびしい」とか、「恋」以外の状況を想定した際と区別される状況を仮に名づけただけで、じゃあ「恋」って何ですか、人間って何ですか、といわれた際には答えることはできない。
 そうだ、要するに区別、対象化が、認識の最初に来るってわけだ。
 何だと、「人間って何ですか」という問にも、答えはあるぞ。 それは特徴を挙げて答えるという方法だ。 二本足で尻尾は無くて、あんまり毛深くなくて幼児期間が長くて……ほら、当の「人間」という状況にあっても「人間」という状況を表現できているじゃないか……とは行かなくて、それは、当の人間の中で、歩き方とか尻尾とか毛深さとか、特定の部分を対象化して言っているに過ぎない。 特定の部位を先鋭化させて、それを対象として見る方法。
「自分の手」
 と言ったときに、「それは、じゃあ、自分?」と聞かれたら、どうだろう、切り離しても自分は生きているので、違うか……でも、外部から切り離されて自分の意識で手を動かすことはできるのだから、その点、手も「自分」だんべなあ……。 とまあ、それと同じで、当の状況にある場合には、それを他者と区別するという方法を取って区別できる点に対象を限る以外に、対象化して認識することはできないのだ。
■というより、対象化できないものは認識できないのだ。

■関連して、要するに認識できないもの(対象化できないもの)に、無理やりな名前をつけることを、あたくしは心底嫌っているんだと気づいた。
「人間!」
「恋!」
 も然り。もっとも、古来の用語である「恋」などには、そういう「曖昧さを包括する」意味が込められている気がするので大嫌い、というわけではない。
 実際に心底から嫌いな言葉は、もう、書くまでも無い。 でも新年吉例として、例えば。
「人権!」
「平和!」
「構造改革!」
「政権公約!」
「適用除外!」
 下の二つなんて、「公約」「除外」とどう違うのかという鼻糞問題も付随して不愉快である。 ちなみに「適用除外」というのは、残業代を無しにする「ホワイトカラー・エグザンプション」の「日本語」である。 新聞が「もっと日本語を使おうぜ」として、カタカナを置き換えようと併記する場合があるが、あまりにも醜悪。

■とにかく新年 明けましておめでとうございます。
 これの言葉を、紅白を見終って、1月1日0時0分に言うのはおかしくないかと、首を傾げたりした。 「明けまして」というからには、日の出が欲しい。 偏屈すぎか。 数えではもう28歳。


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