4) 世界は秋葉原になる |
|
|
1) 読書感想文 芥川賞「沖で待つ」 |
2)パチンコとマスコミ |
3)文化滅亡後 |
4) 世界は秋葉原になる |
◇ 通勤のため毎日秋葉原へ寄る。
家と職場とを往復する途中に立ち寄るだけなので、普段は秋葉原らしいところへ立ち寄ることは少ないのだが、日々軽く眺めるだけであっても、この場所でおたく文化が花開いたのは、なるほど当然なんだとつくづく感じる。
もともと家電製品を中心に扱っていたところが、やがておたく文化の巣窟と化して、今となっては逆に「一般化して、真のおたくには居心地が悪くなった……」なんてことさえ言われているようだが、とにかく家電製品の発展とおたく文化は結びつく。
家電製品というのは、明らかに、暮らしを便利にするために発展してきた。冷蔵庫に洗濯機、食器洗い機等々はそれであるし、あるいは、ラジカセやVTR、TV等々個人の嗜好・欲求を満たすために発展してきたわけである。
便利とは安易と同じようなものであり、個人の嗜好を満たす安易な文化つまりおたく文化が、個人の嗜好を安易に満たそうという目的の家電製品の地と結びつくのは当然のことである。 というか、「社会の発展」が、個人の嗜好を安易に満たす方向で動いているとするなら、おたく文化・秋葉原は世界中に広がって行くだろう。
世界中に拡散するおたく文化の中心・秋葉原はいよいよ発展すると思われるが、同時に、一般大衆が安易な方向を求めている以上、秋葉原が一般化して行くのは当然と言える。 というか、人々が秋葉原化して行く、というふうに言えるんじゃないか。
もちろん、現行の秋葉原的表現が嗜好に合致しない人も多いに決まっているが、安易な方向を求める現代文明が安易な家電製品を発展させたのと歩調を合わせるかたちで、秋葉原的表現が活発化していることを考えれば、やがては、もっとも安易な人間の嗜好形態が秋葉原に見られる可能性がある。 安易な嗜好というのは、現段階では、見栄も外聞も気にしないで我が嗜好(趣味とか“属性”と言い換えられる)を求めるオタクたちに代表される人種の嗜好であるが、ここまで来ると、これは別に、オタクたちという“特殊な”人種の嗜好というべきではないと結論づけられる。
さすが贅言。気が付いたら、秋葉原的表現……あの、二次元美少女たちの微笑みは、人間共通の、最も安易な嗜好の現出なんだ、と言い始めている。 みんな結局のところ、“ああいうの”が本来的に好きなのだ。 世界はやがてすべてが秋葉原。 あるいは、すべてがコミケだ。
各人の自我は、結局のところ、他者・外部世界から隔てられて成立するほかに無いのだから、違和感が消失した究極の安易の中では自我は成立し得ない。個々の嗜好を求め続けた揚句、自我を消失させた連中が時を過ごす秋葉原(=世界)……すでにその傾向は見られるが……正直なところは、気味が悪い。
……何だかこの贅言からすると、電化製品が自我の喪失に結びつくなんて読めるかもしれないが、そういうんじゃなくて、「安易を肯定し、推進してきた現代文明は各人の自我喪失の方向へ進んでいる」と、そういうことである。
もっとも、他者から見れば(今のところ)オタクは異質であり、コスプレイヤーたちはおかしな恰好をしているだけだが、嗜好に安易な空間(秋葉原)に於いて当人は異質性を感じていないはずだ(彼らを渋谷原宿に押し込められたら自閉症になるだろう)。
自分の嗜好に従うという面では渋谷原宿の人たちも同じ穴の狢であり、彼らの派手なファッションだって、コスプレイヤーと大差ない。 自己の外見についてある理想型を抱き、それに向けて外見を選択する。ただその際に、渋谷原宿の場合は、生身の渋谷原宿の人種と違和感ないような選択をする分、面倒なことをしていると言えるわけだが、結局それだけのことで、どうせ渋谷原宿の人種など、自宅などに戻れば、眉毛の無いTシャツ・ジャージ姿なのだろう。 (平成18年 5月18日) |
3) 文化滅亡後 |
◇嫌いな割によく読んでいる司馬遼太郎の、「街道を行く」の一節に、確か、こんな文章があった。
「日本文化は室町時代に完成し、江戸時代で頂点を迎え、明治期に入って崩れ始めて昭和の高度成長期で滅んだ」
伊予宇和島あたりの紀行文の一節で、「ここには日本文化の名残がある」というようなことを言っていたが、伊予地方に感心したという記述より、すでに日本文化は滅んでいるという記述にドキリ、とした。 とはいえ反感は覚えず、やはり自分はひとつの文化が滅んだ後に生まれた世代なのかと改めて思い知らされた感じがしていた。
妙なことを述べているが、このことは、順番に第一回目から読んでいる「芥川賞全集」で再度実感して、懲りない贅言をしたためるほど心が動いたのである。
このごろ読み終えたのは、村上龍が「限りなく透明なブルー」で当選したころ、1976年頃、つまりわたくしが生まれるちょっと前の高度経済成長期、まさに司馬遼太郎が日本文化が滅んだといった時期の、芥川賞小説群である。確か11巻。
この11巻へ来て急に、読後に、文学が死んでいると感じられてならなくなったのである。
実感のない世界。
そういうふうな「現代的な」世界認識、というものに小説が様変わりしたように感じられてならなくなった。
この11巻以前にも、ときどき、くだらないような小説が載ってしまっていることもあったが、11巻については、一巻まるまる、しょうもない、「現代的な」小説世界が広がっていたのである。
うまく説明できないが、現代的な小説世界が広がっていた、というのは、小説に味が失せて世界が実感を伴って描かれなくなった、というような意味で、そういう味のない小説がこの時代から一気に噴出したように感じられてならない(念のため言えば、実感ある小説ということで私小説を期待しているんじゃない)。
11巻の巻頭には、きわめて象徴的に村上龍の「限りなく透明なブルー」があった。ここには「実感の無い世界」に生きる人の群れをその混沌ぶりとともに描いて、旧来の文学と訣別した迫力があるが、その次へ来ると、もうおしまいである。
いずれも頼りない現代を、それにふさわしく頼りない筆力で書いたと言えるが、三田誠広「僕って何」などはペラペラしたライトノベルであったし(実際、これはたぶん芥川賞史上最低の作品である)、池田満寿夫「エーゲ海に捧ぐ」宮本輝「螢川」高城修三「榧の木祭」どれも、ある程度の迫力はあっても、どうしようもなく薄っぺらで、そこに世界が無い。 言葉を費やしてつくられた世界が、限りなく透明に近いブルー、という程度にしか実感されてこないのである。村上龍は、そこを描いたので、大したものだと思ったが、このあたりでまったく日本文化が滅んだ、のは間違いないんだと愕然とした。 それを言い切った司馬遼太郎がにくいほどである。
で、芥川賞全集11巻を読み終えたあとは、谷崎潤一郎を読み始めたが、ああ、なんとまあ日本語が流れることか。 「源氏物語」系の、やわらかな文章で、漢文系・森鴎外とは大きく異なるがそれでもやはり良い日本語。
谷崎潤一郎が、日本の小説のひとつの完成形だと言っても良いと思うし、それが高度経済成長を前にして亡くなったのも、まあ偶然というか必然というか。 とにかくその頃にバタバタと文化を持った人たちが亡くなって、日本文化はブチブチと滅んだというような感じなのだろう。
ふと思うたのは、わたくしが司馬遼太郎を嫌っているのは、「滅んだ」と言って終っているところ、であるのかもしれない。冷徹な目で「滅んだ」と言って、もうあとは知らないよ、という態度が腹立たしい。 滅んだあとの世代にしてみたら、じゃあどうしたらいいのさ! と反発するのであるが……ははあ、なるほど、そいつはあんたの世代の仕事なんじゃないかいと、そういうわけかい。 (平成18年 4月10日) |
2) パチンコとマス・コミ |
◇ 現代社会においてこいつはひどい、とわたくしが思うものは、パチンコとマス・コミである。 どちらも人を屍にする。 パチンコは論外であるとしても、マス・コミのひどさを改めて感じたのは「PSE法」とかいうリサイクル業者を干乾しにする法律の話題と、あとは、阿川弘之「米内光政」読後である。
「PSE法」というのが悪法であるというのは、言うまでもない。 「電気用品安全法@2chまとめ」などによれば、確かに、これはお役所の狂ったような屍が得意になってつくった「ウンコ」であると判断できるが、この贅言の趣旨はそこではなくて、マス・コミである。 聞くところによると、このウンコは5年も前に出来た法律のようで、その間、お役所仕事は、大して宣伝しなかったという。
しかしお役所仕事の周知徹底の方法、というのが、せいぜいホームページ掲載、パンフレット配布する、ポスターを作成する、という程度であることは言うまでもなくて、「周知徹底」のためにゃマス・コミが出しゃばる必要がある。 この悪法を触れ回る必要があったわけである。 それなのに、「こ、こんな悪法!」と、今になって騒いているのは、要するに、この5年間の情報の取捨選択が間違っていたというほかない。
もっとも、朝日新聞社説によれば、「中古品の取り扱いは法律の条文では触れられず、これも対象になると経済産業省がホームページで明示したのはこの2月に入ってから(3月22日)」ということらしいので、お役所の屍どもをいっそう鞭打つ必要があるんだろうけれど、これにしたって、マス・コミお得意の「取材」が不足していたというべきである。 お役所のホームページの情報をそのまま報道するなんざ馬鹿にでも出来ることで、普段偉そうに「取材の自由!」なんてほざいてらっしゃるんだから、この五年の間にひとこと「中古品は対象にならないんですよね!」と確認すりゃ良かったのだ。
日本国籍の中国人女が幼稚園児二人を虐殺したときには、女の故郷、支那大陸のド田舎まで取材旅行したマス・コミ。 杉村だったか、若すぎる国会議員が浮気しただかそういう話題のときにゃ、議員がよく行く居酒屋の店員を捕まえて取材してたマス・コミ。 感動的な、取材の自由、取材への執念をお持ちなのである。
先ほどのウェブ・ページが否定的に引用していたお役所の屍リーダー(大臣)の発言がおもしろい。 「皆が今頃気がついて。人を責める前に、自分たちが、みんな5年間猶予期間があったのにですよ、その時にずっと、あまり関心を持っていなかったんですから」 こんなひどいことを言う屍リーダーも知的方面で哀れを感じるのだけれど、マス・コミの騒ぎぶりからすると、趣旨は至当かと思われる。
◇ で、そんな愚かしいマス・コミは昔から変っていないのだと痛感したのは、阿川弘之「米内光政」である。 「よない・みつまさ」と読むというのは、あやまり堂日記に書いたとおりで、このよないさんは、昭和初期に内閣総理大臣も経験している最後の海軍大臣である。 徹頭徹尾、対米戦争に反対された人で、井上成美(最後の海軍大将)さんから、唯一、無条件の一等大将と呼ばれた傑物だった、というわけで、わたくし、初めてこの人のことを詳しく読んで感動しきりだった。
さてこの人が海軍大臣・総理大臣にあって、ひたすら、頑固一徹、対米開戦に反対していた頃のマス・コミの声というのは、「腰抜け海軍め、新時代に対応した政策を取れ」というものであったという。 わたくし、昭和初期のマス・コミといえば「大本営発表を鵜呑みにして……」というような認識でいたのだけれど、大本営ができるのは戦争末期で、それまでは、ガンガン政府への批判記事をぶっていたということである。 ただし、このときの政府批判というのが、「政府はなまぬるいぞ! もっと支那大陸へ食い込め!」という過激右翼の論調が大多数で、米内総理のときなどさんざんだったらしい。
実際、半年経たずに内閣は瓦解しているが、これは、「世論(つまりマス・コミ)」に対して昭和天皇のご信任が抗しきれなくなったためである。
こう見ると、今のマス・コミが、先の大戦に関して盛んに中韓に迎合しているのは、彼らの「日本人は悪くない、軍部が悪かった!」という主張に沿わないと自分たちの「戦争責任」が生じてしまう、という厚顔無恥な論法を内包しているためということもあるんだろう。 昭和初期については見聞が不足しているので大きなことは言えないのだけれど、とにかく結局のところ、見聞が広くないとマス・メディアの愚かさにつられて自分も愚かになってしまうわけで、今のうちは新聞TV、そういうものは汚らわしいものと決めつけてかからないと妙なことになるのだろう。 パチンコも同じで、始めると賭事の陶酔で何ともいえない気分になるのだろうけど、結局、金を儲けるにせよ奪われるにせよ、屍を維持するだけで人間的には、妙なことになる。 (平成18年3月24日) |
1) 読書感想文 芥川賞「沖で待つ」 |
◇ 結局2ヶ月で贅言を書き始めている。 今度の芥川賞からは、三浦哲郎までが詮衡委員から離れてしまったので、はて今後は誰の選評を気にしたらいいんだろうと首を傾げてばかりいる。 わたくしが芥川賞を読むようになってから、日野啓三が亡くなって、古井由吉が辞めて、今度は三浦哲郎が辞めてしまった。 ところでこういうふうに、作家の名前を挙げるときには、呼捨てにするのも何だか不遜な感じがするし、といって敬称をつけるのも馴れ馴れしくもあり、また大仰すぎて気持が悪い……が、まあ、日常、有名な人は呼び捨てにしているからそれで行くとする。
で、今回の芥川賞「沖で待つ」について。 褒める点といえば、「会社の同期・同僚という人間関係に焦点を当てたこと」それから「くだらない話をダラダラ続けずに短くしてくれたこと」くらいであって、要するにしょぼかった、というのがわたくしの感想である。 しょぼい、というのは、卑小、浮薄、安易、というような意味である。
会社人間として働いている箇所の描写は文句無く実感があり、決して優れてなんざいないんだが、以前の「グランド・フィナーレ」なんかと較べるとまずまずの小説だとは思われたが、物語における根本的な部分、ハードディスクを破壊するようお互いに鍵を渡す部分がいかにもつくりものめいた、安易な技巧が見え透いて実感が無いし、破壊し終えた後の展開で題名となった詩が挟み込まれる部分も、その詩の存在がどうにも上辺だけであった。 前半の実生活部分はともかく、物語として展開して行く後半が、「小説ってこういうものなのよ」なんていうような作者の得意げな顔そのもののようで気持が悪かった。 安易な技巧ばかりで愚かしいほどである。
選評では、女連中が褒めていて男連中が無視しているような感じも受けたが、まあとにかく、中途半端なOL文学少女は好んで読むかもしれないが、低級だった。 低級ということでいえば、論外だった「グランド・フィナーレ」なんかと較べりゃ、まだまし、なのであるが、詮衡委員のうち石原慎太郎なんざ、候補作についてひとことも論評せず、「最近は全部つまらん」という愚痴を書いていただけである。
それから「会社の同僚という、今までの小説にない人間関係に焦点を当てた」についてだが、書きぶりが、「男と女の、恋いに近いようなでも恋じゃない、友情」という次元そのものであり、別段新しくもない。
あんなのがどうして芥川賞なんだろう、と不思議になるわけだが、答は簡単、詮衡委員がしょぼいから、それ以外にない。
(平成18年2月11日) |
17年版「新・作者贅言」 |