++ 作 者 贅 言 ++

みなみやま】【作者贅言跡地
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 2006/12/21 「一念(真理絵のために)」作後贅言ほか

■地の文ばかり、文研様式で12枚。かなり書いた気がするけれど、読み返してみると、全体に足りていない気もする。とはいえ、久しぶりに書き込んだ気がしているので修正はしない。
 要するに、ストーカーの小説である。
 恋愛、純愛なんてものは、見方を変えればただのストーカーになりさがるわけで、そういう「思いの空回り」は以前から書いてみたかったところ、ちょうど、「あやまり堂日記」を置いているASKS?ブログの、ほかの人の日記に、もとの彼氏のストーカーっぽい態度が掲載されていたことが、直接のきっかけとなった。「普段は駅から自転車を利用している元の恋人が、なぜかバスに乗っていて、話しかけられた」というような記述に、なるほど〜、と興味を持った次第。ちなみにそれがあるのは、azarash!姐さんとしてみんなに慕われている人のブログだけれど、元カレはスト(ryの顛末は、大々的にされていない場所に、コッソリと掲載されている。
 出会いから別れに至るまで、縷々と出来事を書き連ねて、読者に主人公の空回り、通称「勘違い」を想起させるという方法も考えたけれど、ひたすら思い続けるだけ、思いつくまま書き付けるという方法にしたことは、わたくしにしてみれば、新しい気がしているので自己満足できている(いちいち出来事を考えるのが面倒だったこともある)。とりあえず、【客観的には大したことでもないのに、用事というか口実を思いついたら実行せずにはいられない、とりあえず会わずにはいられないという心情】を描きたかったので、思い出の詳細は不要だと判断した。これは、正しかったろう。
 主人公を女に置くと、きっとあたくしが主人公に同情してしまい、何だか、純粋で愛すべき女の子の小説になってしまったっぽい。あるいは、徹底的に突き放して、邪淫夜叉のように元の恋人をひたすら追い迫るなんていう、ドロドロしすぎたものになりそうで、実際にあたくし自身の感覚も参照しつつ書くには男で良かっただろう。もっとも、当初は、もう少し主人公をウザイ奴に仕立てるつもりだったけれど、書いているうちに同情的になってきてしまった。純愛とストーカーの近接である。
 真理絵という名前は、ちょうどTVや週刊誌が騒いでいた人の芸名から奪った。(※今は真理子というらしいが、昔は真理絵だったらしいですよ)
 ちなみに、真理絵の側から、もとカレが気持悪すぎる、という内容の短編を仕立てようとも思ったが、味気ないし、短絡的すぎるようだったのですぐに止めた。ちなみに、その後に主人公がアパートへ行くと転宅したあとだった、真理絵に元気が無いのは鬱陶しすぎる主人公への同情、拘泥のためだった、という結末を想定していたが、これも蛇足なので省いた。

■小説三昧一覧から、「地底人類もぐら」以降の文字を大きくしてみた。何だか小さすぎる気がしていた。

■それからせっかくなので一覧に「海神が呼んでいる」「詐術」を追加した。前者は398枚を11ヶ月、後者は67枚を1週間で書き上げたものである。
「海神が呼んでいる」については、とりあえず疲れた、としか書くことはないのだけれど、11ヶ月間も、こしらえた主人公羽生慎一や波瀬雛羽、三池綾葉、蜷川大佐に能代中尉という連中と格闘していたので、これが終ってしまって一ヶ月後の現在、「悪霊退散っ!」の長編を書き始めているのだけれど、虚脱感というか何というか、奇妙な感覚を味わっている。
「詐術」は、二年か三年ぶりに九州さがへ送ることのできた久しぶりの時代劇で、まだ時代劇を書くだけの時代感がつかめていないことが感じられたが、だいぶ成長したと思った。400枚を書くために、おそらく1000枚分以上の章を作成した「海神が呼んでいる」を経て、筆力が格段に上昇している。70枚は、以前なら【中編】だと感じられていたが、どうも【短編】らしかった。書き出して、全体の三分の一程度の展開をしたところで、規定70枚のうちの半分以上を費やしてしまったため、そこをすべて切るなどした。やれやれ。
 ちなみに、九州さがの締切が2、3年前と同様、12月半ばだと信じていたのが、書き始めた直後に11月末だと発覚。それが締切の十日前だったので諦めかけたが、まあ、何とか一気に書ききった。そのため思い入れが薄い。しかし、時代劇らしく書けた。

■「悪霊退散っ!」長編は、以前のものの前後をつけたかたちで進める。今回は、「海神が呼んでいる」で成功だった【短い章をつくる】を徹底するため、区切りづけを20×48で厳守することにした。これは、新聞小説だった吉川英治「鳴門秘帖」の一回分である。昨晩から始めたが、適当な量であると感じ、一行も過不足をつくれないので文の緩急を鍛えるのに最適であると感じられた。だいたいは、一回分に詰め込みたい内容に対して行数が不足する傾向にあるため、うまく省かなくてはどうにもならない。
 ちなみに、舞台を江戸ではない江戸、というファンタジーにしているが、これは作法を通じて時代小説の舞台背景を学ぶためである。三田村鳶魚全集などを読んで、知識を増やしているが、実際に小説を書くとなると、地名や風物の、小説上で必要な知識が欠如しきっていることに愕然とする。

 2006/11/17 「ひきこもり代行」作後贅言

 短い間に、短編が続けて書きあがったので気分が良い。 やはり、扱う主題にもよるけれど、適当な暇つぶしというか、気晴らしの短編は何週間にも渡ってチマチマと書き継ぐべきものではない。
 この「ひきこもり代行」は、ひきこもりの代行ビジネスなんていう、単純且つくだらない発想だけを一編にしようとしたもので、正直、無茶な主題だった。人間関係を構築することを拒むひきこもりが、どういう物語をつくれるのだ。 結末をどうするんじゃい、とは書き始めて数行で気づいたのだけれど、まあ、個人的に「当り」の思い付きだったから引っ張ることにして、そして結末は、例の「これから始まる式」で放置。まあ、今後の方向性としては、一人暮らしの生活で誰かが家にいるということのありがたさ、という辺りを描いて行けるのだろうが、面倒なので、適当な長さになったところで切って捨てた。ひどいものである。主人公の名前を考えるのが面倒だったから、ということもある。
 まあ、とりあえず今後、主人公が家を出て、帰宅する度にひきこもり代行の巨大落花生が増えて行く、なんていうドタバタが楽しいかもしれない。人が増えるわけだが、それぞれ会話するでもなく、ずっと無言。あるいは、無線通信での会話だから、カタカタカタというキーボードの音だけが聞こえる。そこへ、ひきこもり対策を叫ぶ異次元NPOが宿敵として登場して、ひきこもったコモルたちを無理やり殻の引っ張り出したら殻の中から武器弾薬が出てきて大騒ぎ、ドンパチが始まる……あれ、何だか楽しいかもしれないぞ?
 発想のもとは、ひきこもりに憧れているあたくしの心情そのもので、仕事なり学校なりに代行というかコピーロボットを派遣するところを、逆さまにしただけのことである。

 2006/11/13 「渇仰」作後贅言と近況

 短編「渇仰」は、2本目の自殺予告手紙が文部科学大臣宛に届いたと、マス・メディアのお祭騒ぎがいっそう目障りになった週末に、一気に書き上げたものである。
 死にたければ勝手に死ねば良い。自死こそはもっとも安易かつ究極的な逃避方法であり、後始末に周囲が迷惑する点から推奨などしないが、ほかに解決策を見出せないような愚劣な輩は、どうぞ勝手に死ねば良いじゃないかと思うわけである。赤の他人に見苦しく助けを求めるんじゃない、勝手にしろ! と思われてならないところへ、賑やかし、暇つぶし、時計代わりに過ぎないマス・メディア分際が、したり顔で見苦しく呻き声を上げるのが本当に鬱陶しかったから、一息に書き上げることができた。
 動機が明確であると、短編などは一気呵成である。
 いじめの話に、これまた鬱陶しい存在である北朝鮮関連を追加して一編に仕立てたわけで、要するに以前の「底辺争議」と似たようなものかもしれないが、まあ、成長はしているねえと、自分ではニヤニヤすることが出来る仕上がりにはなった。「底辺争議」はただのドタバタであるが、今回は一人を追い続けた。
 ところで自殺流行の昨今(なんて話は半年もすれば忘れてしまうだろうから覚え書をつくっておくと、1.いじめを苦にした自殺が発覚 2.いじめに苦しんでいるという輩が文部科学大臣宛に手紙を書き、大臣が会見、マス・コミがいっそう騒擾 3.高校で、規定の卒業単位を誤魔化すなど未履修科目を抱えたまま卒業させようとしたのが発覚、校長が自殺 4.いじめ問題を放置した学校の校長が自殺 5.岐阜県庁で公金横領「裏金づくり」問題の調査副リーダーがとりあえず自殺 ちゅー話が立て続いた次第)、自殺という方法を思いつき、「自分だけが死ぬんじゃない、すなわち、自殺がそれほど大きなことじゃない」という思想を抱かせるこの流行のために死んだ、校長たちは、いっさい同情をしない。 あと追いで次々と自殺しているガキどもも、馬鹿だねえ、と一片の同情は覚えるが何に対する憤りも覚えない。親の養育ぶりを疑い、その点で、哀れだと思う。とりあえず、校長の自殺については、教育者が、自分一己を律し得ないで安易な自殺を選ぶなど言語道断、小説にする価値もない。そんな輩に教育を受けていたガキどものことを考えれば、むしろ自殺して馬鹿が減るという点で賞賛するべきか。
 感情的になった。
 「いじめ体験」というのは極めて個人的な問題であり、まして昨今の学校内で、日常的に誰かを集団で殴る蹴るなどの暴行を加えているような暴力的いじめは少ないに違いなく、悪ふざけの度を過ぎている、気持ちの悪い奴がみんなに無視されている、という状況を、果たして「いじめ」と学校が認定できるかは微妙である。 さらに言えば、軽く「おまえ馬鹿だなー」と言われたことが、当人にとってはそれが深刻すぎる傷になることだってある。これをどうやっていじめと認定するのか。
 さらにいえば「おい、社会の窓が開いてるぞ」「やばい、鼻毛、出てる!」「靴紐くらいちゃんと結べよ」という程度の言葉が受け手にとって耐え難い「いじめ」と認識されることだってあるわけで、或いは、例えば部活動で、自分の運動能力の欠如を棚に上げて正選手に採用されないことを周囲のいじめ、運動音痴が体育大会の存在をいじめ(過去に本気で中止にした学校があったそうである。勝手に死ね)と叫ぶなど、さすがにこの辺になると自殺させるのも面倒、斬り殺したくもなるわけだ。 この状況を、「常に相手のことを思って発言・行動しましょう」などというお寝言で済ませる輩を、あたくしなどは気持ち悪いを通り越して害悪だと感じているわけであって、それもあって「渇仰」一編が出来上がった次第である。
 本当に苦しんでいる奴は、そこから逃げれば良いと、個人的には思う。 ひきこもって一芸を極めるか、転校するか、学校外のサークルに参加するか、積極的な逃げを打てば良いと、乱暴なことばかり書いたので言い訳がてら、建設的なことも記しておく。

 ところで、結局398枚になった長編「海神が呼んでいる」は、11月末締切のHJ文庫ちゅーところで送りつけることに決めたのだが、このHJ文庫の規定は400枚まで。集英社は700枚だった気がするので枚数など気にもしていなかったが、危いところであった。
 出来は、無論、ひどいものである。あと一年くらいかけて再度、書き直してやりたい意欲もあるが、もういい。あれには疲れきっている。
 で、久しぶりに九州さがに時代ものを送ろうとしているが、これは考えてみれば70枚が限度なのである。気をつけないとすぐに超過してしまいそう。。。順調なら、書き出して1週間くらいで完成させられそうであるが。
 今回は、最初にあらすじを書くところから始めている。普通は、そうするのかもしれない。
 とりあえず、骨格を最初からつくっておくこと、主人公に煩悶を抱えさせること、生き様を語ること、そして次々と展開することは実現させたい。時代劇は、「人の生き様」を描くことが、より重要になるのではないかと思うようになった。現代より制約の多い中で、如何に生きるか、を考えることが時代劇の意味なのではないか。
 そうそう、1万アクセス記念として書いている「ひきこもり代行」は、放棄したわけじゃなく、とりあえず「渇仰」を書きたくてならなかったので、中距離の練習の間に短距離走を挟み込んだような次第。

 2006/10/23  10,000アクセスキタ! 長編デキタ! について

 何はともあれ、5年ほどもかかって1万アクセス達成ちゅーことになって、ニヤニヤしている次第。 そのうちの三分の二くらいは自分で踏んでいるに違いないにせよ、桁が増えるのは気分が良い。
 かれこれ1,2ヶ月ほど前から1万アクセスに至りそうだとワクワクしていたので、おもろい中篇でも書こうじゃないかとあれこれ頭を捻っていたものの、書き出すたびごとに放棄、放棄、放棄。
 前の小編「前夜」以降に書きかけて放棄したものといえば、「秋雨」を中心に据えようとした恋愛に、ナツメグ+シフォン、推理ものに、キャラクター小説、現代掌編、残骸がゴロゴロとフォルダの中に眠っているようなもので、やれやれ。 現在は、「ひきこもり代行」という仮題で中編を書き始めているが、はて、完成させられるか、否か。
 そういう一方で、ようやく、本当にようやく、長編「海神が呼んでいる」が出来上がり、10月25日締切りの、集英社スーパーダッシュへ三年続けて出せるんじゃないかと思っていたら、ギリギリで修正が追いつかない。 今度の修正は、誤字脱字の修正なのですぐに終わると思いきや、どうやら休日が一日不足した。
 屍ばたらきを休めば送付できるっぽいのだけれど、やれやれ、今週の木、金に出張(ちゅーか地元へ帰る企画)を入れ込んだので休みにくい。 集英社はあきらめて、11月末のHJ文庫? へ送付先変更。 それにしても、多くの新人賞があるものだ。 ありがたや。
 とはいえ、あと丸1日あれば送付できる長編。 12月半ばの、九州さがへ時代劇を書く意欲を放棄することなくワクワク過ごせそう。 で、それを書き終えればあっと言う間に年末、そして年が明けたらロンドン行を考えなくちゃいけなくなる。
 ところで、例のセカイ系長編は苦労の果てにどんなものになったかと言えば、「だいぶ洗練されてきたぞ、グッシッシ」という、いつもの感情にひたれつつあるものなので満足。
 どのあたりが洗練されたかといえば、「次々と展開する」はもちろん、描写の過不足が承知できてきたところなどで、例えば、
「二階の窓辺に立って、ブラインド越しに下の様子を眺めた」
 ちゅー文章を、
「ブラインド越しに見下ろした」
 だけに切りそろえる手際で、これなどは、昨日の修正で見つかった箇所。 これを、修正段階じゃなく最初の筆で書き込めるようになったら、いっそう良かろうと思う。
 初手からの書き直しは結局4度になった長編「海神が呼んでいる」は、根本的な設定の無理を除けば、良作だと思われる。 そして根本的な設定の無理があるので、お金はもらえないに違いない。
 ちゅーことで、この長編の反省と収穫をすべて注ぎ込んで、時代中編へ進みたいわけである。
 武田氏の姫君を、助平狸の家康から守れ! ちゅー話。 ちょっとだけ史実で大半を適当に。 史実のお話は「武田 松姫」あたりを検索すれば出るっぽい。

 2006/9/22  GEISAI、エリート社会人、向き不向き

 この一週間の日記のような、贅言。
 先の日曜日に開催されたGEISAI#10というのは、日本一とも言える現代芸術家の村上隆が主催する、特大のアートのお祭で、要するに、アート関係のコミケとも言えるイベントであった。 主としてナントカ芸術大学の学生、卒業生、入学希望者、あるいはまったく関係ないような絵描きや造形家のたまごたちが、コミケと同様、一定額の出品料を支払って、一日間、自分の作品を展示、販売することのできる場なのである。
 当日の様子は、ASKSブログあやまり堂日記を見れば分かるので書かないが、とにかくGEISAIはすばらしいものであった。何より熱意を感じさせる作品と出会うことができた。
 そしてその熱意を感じさせる作品との出会いを可能にしているのは、主催村上隆の熱意であり、その熱意がつくりあげた細かな審査システムであったと思う。
 審査。
 全出品者が対象となるこの審査のおかげで、出品者は多かれ少なかれ、他人の評価を気にすることになる。 「俺は俺の道を行くのさ。他人の評価なんて気にしねえ」などと、街角に醜悪なスプレー・ペイント犯罪をかまして得意になっているような芸術志望者であっても、この審査システムがあるGEISAIに出品すれば、どううそぶこうが、審査結果を気にしないではいられない。
 芸術作品を志向する者は、無論、自己の表現方法を突き詰めるのであるが、それでも、見る者を意識しない作品つまりただの独善だとか、受け手との関係構築を拒否するような作品をつくっているようでは、ただのうんこ垂れでしかない。 そんなものはゴミである。 ことに現代芸術は、自己の表現方法の追求を過大に評価しているふうがあるので、他者の目を意識できない分際が、「これが俺の表現なのだ!」と声を特大にすれば勝ち、というような錯覚に陥り易いのではないか。
 そんな中で、GEISAIの審査システムは優秀であり、たまごの人たちにとってこれほど励みになるものはないと思うのである。 ジャンル不問、身分不問、作品の規格不問、すべて不問である中で、良いものは良いとして、金賞受賞で個展に直結するような例もあるのだ。
 無論、たまごであるから、完成していない作品たちである。 未熟だと感じるものも多い。 けれど、わたくしが見たいのは「発展性」であり「熱意」である。 大学の文研時代、つまらない同人誌の読み甲斐もまさにこれであった。 つまらないに決まっている中で、既存の芸術に無いもの、既存の芸術を革新する可能性、熱意、発展性を感じ取るものがあれば、それはすばらしいと思うのである(あいにくと、現在の文研には無いようで、惜しいと感ずる)。 むしろ、未完成であるが故に、それをいっそう感じさせるものがある気がする。
 そういうふうに。
 GEISAIで興奮し、やはり自分のいるべき場所は【こちら】なのだと実感した数日後、それとは対角線上にあるような場所に身を置く経験もした。
 文部科学省キャリアの若手と、酒を飲む機会があったのである。
 どうせ不愉快な場所だろうと思ってはいたが、人間観察をしておいて損は無いのであり、加わってみた。
「こういう仕事ってさ、何だかんだで人間関係が大事だよ」 「とりあえずせっかくなんだから、コネをつくらなきゃ」
 こういう、おそらく社会人的エリートのほとんど全員が確信していると思われる俗論を、例の如く聞かされもしたのであるが、共通して言えることは、彼らのエリート意識というか、仕事をするということに対する熱意であり、また、人あたり、人柄の良さであった。
 熱意は、わたくしなどには気違いとしか感じられないが、膨大な量の仕事をこなすという一事からしてやり甲斐であり、それが国の施策に直結することもやり甲斐になるのであろう。 そして、何より人柄の良さ。 そりゃ時々は偏屈な者もいるのだろうが大半は、ほとんど間違いなく、好青年である。
 彼らは充実している。 おそらく、社会人ばたらきを「組織の歯車」だと言うのは、そこから脱落しかけている人だけであり、エリートたちにとってはそのことが自明であったとしても、互いに魅力的な人間だと認め合い、個性ある自己を確認し合っているのだと思う。 それでなければ、あの陽性な空気はつくれないと思われる。 愚痴はいっさい出ない。
 わたくしはこれを、気違いだと感じるが、気違い自身は自己を無類の幸福者であると信じているに違いなく、また彼らがいなければ世の中がうまく動かないであろうから、憐憫も思わないし、嘲笑も浮かべない。 彼らはそれで満足しているのだし、世の中の大半は満足しているのだ。 ただ、そういうエリート意識を否定しないと言った。 だが、屍域の頂点を目指す彼らが、ある時に競争に敗れ、あるいは疲弊して先へ進めなくなったときに、悪評高い天下り役人と化し、エリートとして肥大した自意識のみ残して世の害毒となる例は、マス・メディアによって有名である点は留意が必要である。
 彼らは人的ネットワーク形成に価値を置く。
 仕事で何か起きたときに助けてもらうため、なんて言っているが実際にはそんなことより、相互にエリート意識(仕事を生き甲斐だとする価値)を共有すること、連携による自己意識の拡張を快としているのだ。 そのことで、自意識を肯定している。
 そういう世界。
 おそらく、わたくしがそういう世界に入る機会は、これからも、またこれを機会にすれば、充分にたくさんあると考えられる。 わたくしなどでなくとも、誰でも、社会人ばたらきを続けて屍の頂点域へ喰い込む方法は無数にあると思われる。
 ただしそこには、向き、不向きがある。
 そういうエリート意識を快とするか、不快とするか、そこが此岸彼岸の分岐の一つと言うことが出来るだろう。 そしてわたくしはそれを不快と感じ、芸術を志向する岸に居りたいと念ずるのである。
 長くなった。
 この思いは、昨日、「時をかける少女」を見たことで決定的となった。
 良い作品はわたくしの心を動かす。 自己肯定の手段を芸術表現に求めるような生き方を、わたくしはすでに選んだ。

 2006/9/11  未練の長編状況

 何度も書いた気がするけれど、大がかりなファンタジーをやろうというときに、主人公を凡人とすることには無理がある。 特殊な能力、ちょっとおかしな頭の構造も無しに、無茶苦茶なファンタジー世界で活躍することはできない。 これは自作の話である。 主人公が凡人だという無理な話にもかかわらず、これまでで原稿用紙にすれば250枚も続いたのは、要するに、「次々と展開する」という二十五式が辛うじて働いているためだと思うが、それが、終盤に来ていよいよ修復不可能な破綻ということになってきたらしい。
 修復不可能な破綻というものに気づいたのは、ちょうど新しい宮様がご誕生ということになった日くらいで、
「あれ、ひょっとして、この物語って、主人公が無くても成立するんじゃね?」
 ということに気づいて愕然。 何せ、主人公が凡人高校生なので、奇妙奇天烈なファンタジー世界で壮大な出来事をバンバン起こすためには非現実的な人物を活躍させる必要があったのであるが、このために、主人公の存在価値がグングン低下。
「ちゅーか、主人公の男女二人、こいつらが無い方が、物語はスッキリするんじゃね??」
 という結論が生じてしまって、ああ、茫然自失。人生終った感まで漂い始めた。
 茫然と考えていたら、物語をもっともスッキリさせるためには、主人公の羽生慎一と幼馴染の波瀬雛羽という二人を最初から出さずに、羽生君に思いをかけて結局むくわれないことになるもう一人の女、三池綾葉のみを主人公にするべきなんじゃないかということが見極められて、よし、9月末応募締切をあきらめて、書き直しだ! なんて気合が入るわけがない。
 一から書き直すことになるわけだが、そんなこと、できるかァ〜!!!!
 ちゅーわけで、9月末締切のガガガ文庫とかいうのは、短編でも大丈夫らしいので、「空の二人羽織」を出すだけにして、長編は、あきらめて放棄する……なんてのは、これほど悲鳴を上げつつ続けてきたのだから、嫌だ。 どうしても嫌だ。 しかし、破綻していると承知しているものを続けるのも苦しい……といっても、一から書くことなんてしたくない、気力が持たない、絶対に無理。 それなら!
 現状のまま、10月15日の集英社を目指すことにする(三年連続になっちまった)。
 ちゅーわけで、読み進んで退屈するような展開づくりをしたわけではないものの、主人公の存在意義だとか、肝心要な部分が崩壊している気がしないでもない、そんな状況のまま、書ききることに決めた。 一次通過すら危ぶまれるが、んなことは知らない。 書ききることだけを目標にする(ああ何ということだ)。
 いいかげん、次が書きたい。 これを書ききって、次を書きたい。 放棄することは心根が許さないのでこれを書ききって、次。
 すでに次の構想は決まっていて、時代劇。 誰に何といわれても、どんな誘惑に負けそうになっても、時代劇中編で、九州さがへと決めているのだ。 戦国末期、好色たぬき徳川家康の餌食にされそうになる、武田のお姫様を守れ、ちゅー話。 時代背景、設定を借りたファンタジーのようなものになるだろうが、ドンピシャでわたくしの好みで行く。
 それにしても。
 無難に書き上げてダメだったらすぐに次、次、次と、とにかく数をこなしたいのに、やれやれ、あのセカイ系はどこまでも祟る。

 2006/8/23  芥川賞「八月の路上に捨てる」感想文

 格差社会の底辺に生きる若者の仕事と離婚 フリーター文学の誕生!
 なんて煽り文句が見られたものの、フリーター文学なんてものにそもそも期待できねえなあと思いつつ、題名も何だか、確かに最悪ではないし気合を感じ取ることも不可能ではないけれど勢い、強さが感じられない、というところだったので、それほど期待せずに読んでみた今回の芥川賞。作者が男か女か不明だったけれど、写真を見たら男だったので、まあ、読めるかなと思いつつ、今月の文藝春秋を購入。
 で。
 ところどころに良いところが見られる、凡作。
 という感じだった。
 詮衡委員の選評もだいたいそんな内容で、最終的に○が2つに△がいくつか、という判定だったらしい。そんな有様でよう授賞と決めたなあ。。。
 わたくしは、離婚直前の奥さんの行動描写がすぐれているとは感じたのだけれど、すぐにそこへ「それはつまり……」と解説を入れてしまうところなどは、くだらないなあと幻滅。
 根本的に、男女二人の会話の中で過去を思い出す、という手法が凡庸で味気なく、職場の先輩(正社員・女)と主人公(フリーター・男)の関係が、新しい! という好意的な意見もあったけれど、これなどは、前回だったかの、「職場の同僚という男女」を明確に意識した、何だっけ、女の作者が書いたものの方がまだまし、であって評価に値するようなものじゃないんじゃないか(職場の同僚の男女だって、別に何とも思わななんだが)。 フリーターと正社員の関係、これが時代を映している! というのはちと買いすぎである。 まだまだ足りない。
 結局、わたくしが感心した、離婚直前の若夫婦、という現代的な部分はおざなり、短編の主軸たるフリーターと正社員の女との関係は薄っぺら、フリーターとしての生活は描けていない(描こうという意図があったとは思われない)、というもので、結末に何か知らんが主人公が穴を掘り始めるなんざ、何とか「文学的結末」をつけようとした蛇足でしかなかったと思われた。 八月末を舞台にしたわけだけれど、題名も別に何とも呼応していない。
 繰り返すと、ところどころに良いところはあったが、全体的にはくだらない短編だった。 感想をくだくだ書くことができない。

 2006/8/14 コミケ感想文と「社会人」批判

 念願だった、というと奇っ怪な誤解を受けかねないけれど、とにかく前々から非常な興味があった、コミケへ出かけてきた。ちょうど70回目だったらしい。
 感想は、とにかく人、多すぎ! 死ぬ! に尽きるのだけれど、何にしてもあの熱気……酸っぱい臭気に包まれた熱気はすさまじいものであった。駅の売店で新聞を並べているようなマス・メディアはほとんど黙殺しているのだけれど、あの異様な興奮は留意しておく必要がある、とすでに70回目を数えるお祭に対して今更なにを言うのかというところではある。
 何せ、好みの絵柄に対して(主として絵。中には文字、音楽もあったが)、10万円を費やして後悔しない人もあるのだ。さまざまな情報によれば、新幹線利用の二泊三日でホテル泊、飲食代込みで予算35万円、なんていう人もあるのだ。おそらくもっと多額の金子を用意していた人もあるに違いない。
 丹念につくりあげた奇っ怪な衣装に身を包み、死人が出そうな炎天下、よく分からない人種のカメラを前にして色香を漂わす恰好をするためだけに大金を費やす人もあれば、企業ブースで金を使うため大行列をつくって熱射病で反吐を撒き散らして搬送されるような人もある。片っ端から気に入った絵を購入してお札を乱舞させる人など数えきれるものではなく、とにかく熱気、熱気、熱気!
 夏のボーナス全額を費やすという書き込みも見えた。愚かしいとも言えるが、使って後悔しないのだから、蓄えた金を使う方途を知っているのだということも言える。あくせくと貯金に励んで家を建て、借金まみれで数年に一度の海外旅行を夢見るマイホーム・パパとなるのと引き比べるとどちらが賢明だか分からない。

 時代は変化している。 やがて旧来からの「社会人」という概念など嘲笑の対象にしかならなくなるかもしれない。
 考えてみれば、「社会人」という“人生形態”はきわめて曖昧かつ、異様である。そこには、公私の別という概念が入り込んでいて、一個の人間を二種類(以上)に分けて考えてしまっている。それの何が不満なのかといえば、社会人ばたらきをしている外向きの自分、と自己の趣味の世界に没頭する内向きの自分、というのを分けている点でおかしいのであって、二者が相容れない場合には、どちらかが不満足な時間消費になり、結果的に両者が中途半端になってしまうのではないかということである。すなわち、仕事はテキトーに行い、テキトーに責任をなすりつけて済ませて、あとは自分の好きな世界、「本当の自分になれる世界」に没頭する。
 そういう「公私の別」を生じさせれば、あとは知識的な「社会人としての自覚と責任」なんていう文言を鼻で吹き飛ばして、不正、不満、不十分な社会人ばたらきの流行に至る。そしてその一方で、テキトーな社会人ばたらきで蓄えた金で、「本当の人生を送る」わけである。消費時間からすれば本末が転倒しきっているが、それが是とされてきたわけである。かつ、マイホーム至上主義によって借金まみれになる人生が大流行した。
 しかしそれはすでに、ニート、フリーターの流行によって揺らいでいる。また、マイホーム主義者が購入してくれたおかげで、その次の世代は借金まみれになって住居費を払う必要がないのだ。「社会人としての自覚と責任」という文言はすでにむなしく、サラリーマンのくせに人生すなわち勤労という姿勢は嘲笑の的にもなっている。

 向後は、人生が勤労に一致するような、しかもそれが個々人の性癖に合致するような勤労つまり漫画家やアニメーターといった仕事がますますもてはやされるに違いない。 とは短絡的すぎで、有名ではない漫画家やアニメーターが喰って行けないほどの環境にあることは有名である。
 つまり、旧来のTVシステム等をもとにしたマーケティングに依存するかたちで、そういった職業を成立させるには限界があるのだ。旧来のマーケティングに依存して成立できるのは、旧来の、公私の別を主軸にした「ささやかな趣味」の次元であって、すでに「ささやかな趣味」の次元から「本当の人生」方面へ大きく進み出している社会には対応しきれていない。そろそろ、新次元に対応した金銭授受の構造を見つけ出さなくちゃいけないんじゃないだろうか。自己の性癖へ大金をつぎ込んで惜しくない人は数多いのだ。

 その一方で、一生を既存の社会人ばたらき地獄に落とし込んだまま、年に2度、自己の望みを叶える巨大な祭典を待望するという心理も拡大傾向にあると考えられる。
 これは、日々の暮らしが貧しい南米各国で、年に一度のカーニバルが超特大規模で盛り上がって、民衆のガス抜きをしているのと同様である。このサイクルへ落ち込めば、そこから浮上することは容易ではなくなり、コミケなどに何の文化的価値も見いだせなくなる。南米カーニバルでは、カーニバル終了後から、すでに来年のカーニバルへ向けた準備を開始する人がいると聞いた。 向上心が奪われている。わたくしは、これに価値を見ない。


※ 新たな金銭授受の構造私案
 コミケでは支払った金銭はほとんどが作成者に渡るが、既存の市場に出回るDVDやらCD、一般書籍といった品々にはおぞましいほど多くの中間団体が入り込んでいる。しかし今やコミケの場だけじゃなくインターネットを通じて完成品が直接授受できる時代なのだ。新たな「中間団体」の設立があっても良いんじゃないだろうか?? すなわち、売上代金を品物作成に関与した個々人に振り分ける機能にのみ特化した中間団体で、楽曲はカラオケやら通信があって容易ではないだろうが、小説、漫画、一枚絵などは可能なんじゃないか。 中間搾取費は無論公開し(同人誌の委託販売では、30%とか、公開されている)、その他会計上の計算も、ネット上に公開して検証させたら安いんじゃないか。。。

 2006/8/11 更新と「前夜」作後贅言

 ちゅーことで、大更新。
 前々から小説目次の改造と、贅言とあやまり堂日記とを合体させるという改造を行いたかったところ、まずはともかくトップページの更新から手を着けてみた次第。 長編「海神が呼んでいる」の第一稿が出来上がって、シャープペン絵を数枚描き散らしたあとで、DVDのエウレカセブンを一気に見た影響で、トップページの外見が決まった。 もっとも、わたくし個人が勝手気ままにつくっているページなので、デザインのポイントとか、そんなもんは無い。かっこいいものを作れる人が羨ましいと思う。
 さて短編「前夜」である。
 あまい恋愛じゃないものを書いてみたくてつくってみたのだけれど、結末が弱すぎる感がある。 と自覚しつつ、中途で止めてしまったのは、これを仕上げるには長編、せめて中編の長さにしなくちゃ納まらないようだったので、まあ、いいや、なんていって、要するに適当である。
 舞台は、以前、屍ばたらきの出張で出かけた雲仙地獄谷温泉と、もっと以前、趣味で一週間ほど自炊滞在した岩手鶯谷温泉を合わせたような場所をこしらえてみた。 といっても、風景描写も糞も無いのでどこだって構わないかもしれない。
 そしてあまい恋愛じゃないもの、を目指したところで結局あまい恋愛ものになったわけである。本当は、「惑星アリス」SFの次は、ツンデレ物語で歌舞伎「彦山権現誓助剣」を書こうという意志があったのだけれど、いつの間にか萎んでこうなった。ときどき、こういうあまいもので個人的な悦に入りたくなるのである。
 舞台として思い浮かべた鶯谷温泉、雲仙温泉ともに、何だか情緒があって好ましく、いつか小説にしてやろうと思い続けていた場所である。 なかなか好ましかった旅先を小説にしようと思うのは、大学文研時代の諏訪、「湖の町」から同じ傾向で、そういう舞台で、露骨な恋愛感情を相手にぶつけずに済ませてしまう物語運びは、わたくしの個人的な性向であることは間違いない。 考えてみれば旅先でこういう妄想ばかりしているというわけだから薄気味が悪い面もある。
 ちゅーわけで、「前夜」。
 題名としては、前回の「アリス」より適切だと思っているが、やや、堅い。 書きぶりは、わたくしの好みをそのもの。 時折書き込んだ、旅館の経営状況などは、実際に聞いた話が大半。
 内容としては、露骨な恋愛を露出させるのは、どう足掻いてもわたくしの好みにならないので、この程度。子供だね、と言われたら、ああそうさと頷いてやる。露骨な恋愛模様には美しさが無いと思うし、秘めたままの方が美的だと確信している。 とはいえ物語的な深みは、なるほど、子供じみた恋愛になるのでだいぶ劣ることは認める。結末なんて無いようなものだったので、「これ以上は、とくに書くことが思い浮かばない」なんて一行でも書き込んでやろうかと思ったほど。 
 フン、いずれ、わたくし好みのあまい恋愛を入口に深いドロドロしたものを長編で勝負してみても良いなと、いま初めて思った。

 2006/7/24 「惑星アリスからの帰還船」作後贅言

 正直なところ、題名は気に入っていない。けれどほかに思い浮かばなかったあたり、中身もそれなりに貧弱になっているかもしれない。
 さてSFである。これまでに多少、まがいもの臭いSFは書いたことはあったが、今回のは割とSFらしいものになっているんじゃないかと思う。それからこういう、二人の男女の淡々とした会話は、わたくしは好きなんだけれど、読む方にとっては退屈かもしれないなあと思いつつ、けれど筋は、まあ、好かれるんじゃないかしら。
 SFは、何かの状況を極大化するためには有効であると感じ、書いている最中に、なるほどしばらくSFと付き合ってみようかなあと思わせた。とはいえ次は「彦山権現誓助剣(ツンデレ)」を書くと決めているので、その次になるかどうかは知らない。
 惑星アリス、と言う名前は、登場する惑星に何か名前をつけなくちゃいけないと、困窮した挙句、そうだ、「発見者が孫の名前を付けた」なんていう裏設定があっても良いなあと思って、個人的に響きの好きな名前を持ってきた次第。昔、パリ・ホームステイ時に恋していた人の名前でもある(オイオイ)。 そうしたら、超光速通信を考えようと量子力学を読んでいたときに、2地点の量子情報交換実験(?)に際して、AとBとが通信するときに、A者は「アリス」というふうに命名されていたので、おお、こりゃちょうど良い、と喜んだのだけれど、Bが「ボブ」だったのでガックリ来たことがあった。
 アリスの衛星にボブ、でも、そりゃダメじゃないが、わたくしの趣味には合わない。結局、地球にとっての月は登場させなかった。
 わたくしの趣味という点で言えば、登場するサエコとアキタカという名前は、SFなのでカタカナ、とそれだけの背景があるに過ぎない。日本名にしたのは、ピエールは、とか、ジェニファーは、とかが来ると情景が狂ってしまうと感じたからで、わたくしが個人的に外人名が嫌いなだけである。
 あと、太陽系にもっとも近いらしい、アルファ・ケンタウリが4.4光年とあったので、まあ、5光年とちょっとの距離のところに惑星アリスを置いてみた。そんな距離に恒星なぞ存在しないと言われても、知らん。
 あと、惑星アリスへの移民政策については、深みに嵌らないようにしたのみで、真剣に検討してはいない。そもそも考えれば考えるほど、外部惑星への移民というのが分からなくなるのである。支那やらインドで人口爆発が起きているために移民、というのも採れなくはないが、人工爆発での移民の必要性には貧困が結びつき、そういった貧困者が、長期間の宇宙船航海をするだけの金銭を獲得できるわけがない。政府が金を出すにしても、それだけの費用が出せるのなら充分な貧困対策を立てられるはずである。というわけで、特に触れなかったが、移民として渡った中に、貧乏国の連中はいないことになっている。
 とまあ、裏設定を考え始めると際限のないSFであったが、楽しかった。また、いずれ。

 2006/7/11 出張版2

 ちょっと出張します。
 お暇な方はこちらへどうぞ。

 2006/7/3 週末の小説

 以前なら間違いなく放棄しているような、渋滞長編は、週末にチマチマ書いたところでようやく終幕への方向がカッチリ定まった感じがするから気分がいい。 今後の展開、最終章の一つ手前という厄介なものが決まった。完成させたあとでも、後半に入って停滞していたあたりは「次々と展開するべし」という二十五式が達成できていないようであるし、また終幕へ向かうために次々と導入した設定を、最初の時点から反映させなくちゃいけないので、だいぶ面倒な書き直しをしなくちゃいけないとは思うけれど、それもまた愉しいだろう。
 このごろは書き上がったあとのことばかりを考えている。いつもどおりである。 前半を書き上げる直前と同じような状態だけれど、前半を終えたのは五月の手前だったということを考えれば、後半の方が量が多い割に進みは早い。 途中まで書いたものを全放棄して最初から、ということをしなかったためだろう。
 一週間で完成する短編予定 → 半年以上かかる大長編。
 この失錯については重々反省せにゃならんけれど、「次々と展開させる」ことの重要さが身にしみた気がしないでもない。これさえ達成できていれば、というか達成できなきゃ大衆小説をつくることなどどても及ばない。
 ところで週末、とうとう「三田村鳶魚全集」が手に入った。 別巻欠の全27冊揃いで7,000円! 中身は美本で、別巻が欠けるだけでだいたい売値の半額になるのであるから、古本屋はたいへんである。 これでいよいよ、時代劇に意識が傾き始めた。
 実は先週末は、神田では、直木三十五全集を探して歩き回ったのだけれど、ほかの作家とは違ってほとんど存在せず、昭和初期の古版がわずかに2軒で見つかったけれど揃いで70,000円、89,800円、ときびしすぎた。 しかも7万円の方を見たのだが、古すぎてとても手が出せない状態。 手にしただけで砕けそうだった。
 というわけで、いずれ「何かの賞を取ったら!」新しい版(平成3年版)をネット注文するべい、と決めて、かわりに三田村鳶魚全集を購入した次第。

 2006/6/30 さすがに、北朝鮮・拉致の話

 TVの中のあの顔としゃべり方を眺めていると、どうにも腹が立ってくるのだけれど、よく考えれば、あの、秀男さんだって拉致の被害者なのである。 腹を立ててはかわいそう、と思いつつも、あの物言いとあのテカテカと光るおでこには腹が立つ。
 で。
 秀男さんの後ろの連中に、「一刻も早く経済制裁を!」と被害者の家族たちは言っているのだが、ふと考えてみれば、まだ経済制裁をしていないのであった。 「一刻も早く軍事制裁を!」ではなく、経済的な制裁。 しかも、また、ふと考えてみれば、「制裁」と聞けばいかにも犯罪者に対する処罰みたいだけれど、せいぜい「商売停止」に過ぎないんじゃないか。 日本との経済交流をいっさい断てば北朝鮮が困ることが分かるから「制裁」と言うのだろうけど、「商売停止」は、決して「制裁」じゃないと思うんだが、どうだろう。
 それにしても。
 すさまじいのはイスラエルである。
 イスラエルの新聞 http://www.haaretz.com/ などによると、「Negotiations are an option」といいながら、「拉致された兵士救出のため」パレスチナへ侵攻し、パレスチナ政府の要人を次々と拘束しているのである。 報道が少なくてわたくしも詳しいわけではないのだけれど、囚われたのは、捕虜となる可能性も考えて兵隊として訓練を受けている軍人であるということなので、わたくしの感情としては、民間人よりも「救出の優先度」は低いのではないか、なんて思うのだけれど、ドカドカと軍事侵攻している。 もともと物騒な中東域であるし、マス・メディアも騒いでくれないが(日本の拉致被害と共通視したくないのかしらんとひそかに思う)、
 イスラエル: 兵士の拉致→軍事侵攻
 日本: 民間人の拉致→商売停止の議論

 ……冗談ではない。
 しかも、拉致されたイスラエル兵は一人なのである( Gilad Shalit さん19歳らしい)。
 もちろん、イスラエルの行動はあちこちで苦情を言われているし、日本もそれを真似して、日米で攻め込んで北朝鮮を滅ぼした挙句、海を越えて「難民」などとのたまいながら朝鮮民族が大挙して来られても迷惑至極だけれど、国際社会の非難といっても実際のところ「国際社会、イスラエルとパレスチナの自制を呼びかけ(CRIニュース)」なんていう程度である。 イスラエルの軍事侵攻を非難するとともに、パレスチナ側に兵士を解放するように言っている……つまり、「イスラエルはやりすぎだが、パレスチナも拉致被害者を解放しろ」と言っているのである。 ここには「イスラエルも乱暴だが、パレスチナが解放しないのが悪い」という空気があるように感じるのは、わたくしだけだろうか。

 イスラエル: 1名の兵士の拉致 → 軍事侵攻

 日本: 少なくとも16名の民間人の拉致 → 商売停止の議論

 2006/6/26 セイザーX終了

 何が不満かって、終了したセイザーXの次が女の子向けのアニメだということである。
 2日の前の土曜朝9時。
 8時55分くらいからTV東京へチャンネルを合わせ、派手なオープニングを正座して待ちかまえていた。
 それほど楽しみだったセイザーXの粗筋は(後半はグダグダになったが)、F1レーサーを目指す安藤タクト(年齢不詳)が、祖父から変身アイテムを渡され、オレンジ色のセイザーX(ライオ・セイザー)のとなり、地球侵略を目的にする宇宙海賊と、12個集めると願い事が叶うという、どこから設定をパクッてきたかは知らない、コスモカプセルの争奪戦を繰り広げる、というものである。
 基本的には、ライオ・セイザーと、紅白のセイザーX(イーグル・セイザー)、青色のセイザーX(ビートル・セイザー)、が主力で、最初はこの三人衆が、ツンデレだが根本的に可愛くないヒロイン・レミちゃんと、いつも寝たふりをしていて紅白のイーグル・セイザーから「起きろゴルド、仕事だ」と言われると「OK、鑑長」といって目覚めるという、これまたどこかで聞いたような設定を持つ、太った髭もじゃセイザー・ゴルドと、普段は白黒警察ギャバンみたいな恰好をしているくせに中身はお風呂好きの不定形生物バチルスという、セイザー・アイン、セイザー・ツヴァインと協力しながら、怪獣(恐獣、という)を退治していたのである。
 やがて強敵が出現し、それを瞬殺するため颯爽と登場したものの、正体は肌の荒れたオッサンだったというシャーク隊長(シャーク・セイザー)や、きっとコネで参加を許されたような意味不明なゴルドーの嫁バトラが加わったわけである。 ちなみに、戦闘時には通常の服装にヘルメットと棘鉄球を手に装着しただけなのに「セイザー」の称号を持つ、セイザー・ゴルドは、嫁さんが登場した頃に「たけしのアンビリーバボー」において、太った外人が殺される役を熱演していることが判明した。
 ちなみに、争奪戦の対象となる12個のコスモカプセルにはそれぞれ動物の紋様・名前がつけてあり、1番から順に、ライオン、イーグル、ビートル、シャーク、ウルフ、スワン、スタッグビートル(クワガタ)、スピアフィッシュ(カジキ)、オックス、ピジョン、マンティス(カマキリ)であって、統一感が皆無。 さらに、1番から4番までは対応するセイザーXが登場しているのに、どういうわけだか、5番以降が現れなかった点など、視聴者を煙に巻く不思議が色々隠されていたのであった。
 さてそれで最終回。
 最後の恐獣は、赤と黒のキングギドラみたいな奴で、お腹に大きな口が開いているのが特徴的であった。 これを前回から引き続いて退治することになるのだが、味方のロボットはほぼ全部壊れ、主人公の人型ライオンロボットと、コアブレイバーと呼ばれる武器もほとんど無い貧弱な一機だけが残っていて、ツンデレなのに可愛くないヒロイン・レミちゃんが運転するライオンロボットが必殺技を放ち、コアブレイバーが黒キングギドラに体当り突撃するというあわれな攻撃を見せてくれた。 コアブレイバーが正面から突貫して、黒キングギドラ腹部の大口に頭から飲み込まれたさまは、コナミが売りたいヒーローっ気のあるロボットからはほど遠い、捕食者にとらわれた鰯といった姿だった。
 そして、前回の30分を費やしてまったく倒せなかった敵を、あっさり10分たらずで撃破し、平和が訪れた。 最後に、天空からヒーローたちが光に包まれて降りてきたが戦闘スーツに顔だけ素、という大爆笑スタイル。 どういうつもりなのか不明で、かっこよさが少しも無いところが、最後までわたくしの好きなセイザーXであった。
 こうして、セイザーXの戦いは終了し、インターブレイクのCMが流れたが、ここでも新ヒーローではなく延々とセイザーX玩具が宣伝されていたのが不安で、結局、後半15分でも新ヒーローの予告は入らなかった。
 最後の15分は、制作者と出演者の慰労会のような、和気藹々としたお茶の間風景で、上記した連中が一人ずつ順番にコスモカプセルを持って様々な時代・宇宙へ転送されるという、これまたどこかで(略)展開だった。 これで最後だという名残を惜しむ意味で各人物の顔が接写されるのだが、何度もいうように、ヒロインを筆頭に登場人物の顔は軒並みTV向きではないため、正視するに耐え難く、姿が次々と消えて行くのは視聴者にとって救いだった。
 ちなみに最後は仲間になった宇宙海賊たちも、心を入れ替えたということで、それぞれコスモカプセルを持って宇宙へ転送された。
 ちなみにコスモカプセルを託された12人は、主人公タッ君、紅白セイザーでツンデレ男のアド、青セイザーでイライラする顔立ちの優男ケイン、外人死体ゴルドー、アインとツヴァイン、宇宙海賊三人衆からブレアード(制作陣の一番人気)、アクアル、サイクリード、可愛くないツンデレのレミちゃん、ゴルドの嫁と、そしてタッ君の妹の由衣。 妹は人数合わせだろうが、それにしても意味がわからない。
「12個集めればどんな願いでも一つだけ叶えてくれるパワーは、使い方によってはだいへん危険だ。 だが、みんなが一つずつ分けて大事に持っていれば、二度と集まることはない。みんなで未来をつくろう」とわけのわからないことを言って、タッ君一家を除いて消滅。
 ちなみにヒロインのレミちゃんは、実は地球人だということが物語の途中で判明したので、いつのまにか主人公安藤家に居候することになり、アルバイト三昧の日々を送ることになった。 そしてタッ君は、F1レーサーを目指してイギリスに留学することに……無理矢理に最初の設定をつなげたけれど、最終カットは唐突にタッ君とレミちゃんがハイタッチをかわして、お別れ。 完結!
 五人戦隊、仮面ライダー、ウルトラマンに対抗すべく、コナミが提供した三年間の巨大プロジェクト・星の戦士たち(超星神)シリーズは、グランセイザー(全51話)で始まり、ジャスティライザー(全51話)を経て、セイザーXの全38話を以て完結した。 セイザーXだけ放送数が少ないのは、たぶん映画化させたために途中で力が尽きたのだ。
 そして来週からは「おとぎ銃士 赤頭巾」である。

「赤頭巾」のホームページを探検すると、以前OVAになっていたものを、コナミが製作委員会を立ち上げ、大々的に放映することになっているらしいが、セイザーXを終幕とする「星の戦士たち」玩具シリーズでコケた(に違いない)コナミとしては、今度も敗北するわけにはいかない、ということで、「OVA版との一番の違いは魔法アイテムであるスィートフォンなのかもしれません。これは設定的に言うと、魔法の呪文が短縮されたエレメンタルカードを使い、魔法を短い時間で発動したり、武器などを召還するアイテムです(公式ホームページ)」と、どこかで聞いた(略)、実に商売上手な設定を追加した模様。
 そうそう、今朝のめざましTVで、サッカー新日本代表監督候補は……というような話題の背後に、セイザーXで耳慣れたBGMがかかっていた。 ラッパの音が勇ましい、セイザーXのスポンサー紹介時に流れていた曲である。

 2006/6/22 SF短編とセイザーX

 いよいよ明日、ですね!
 ブラジル戦は電通の強権が及ばず早朝4時開始とかいうので、まあ、新聞配達と同じようなものと考えれば良いのか。ほやほやの情報を朝のTVが教えてくれるので安心して眠れる。結果以外は鬱陶しい情報に違いないけれど、明日が最後だと思えば楽しみである。
 さて、SFを構想中。
 今回はきっちり短編と決めて、もうひとつのSFというかセカイ系長編で半死しているような轍は踏まないようにしなくちゃいけない。
 セカイ系の王様である「ほしのこえ」から、メール通信に何年もかかる、という設定を持ってくることは決めている。と、最初からここへ書いておけば、パクリと言われても平気というもの。あとそこへ人工冬眠を追加する。SFといえども、結局描くのは人間模様にほかならず、SF的要素は、それを拡大するために用いる小道具に過ぎない。
 ところで、SFを考え始めたら、どう考えても人間が宇宙に暮らす、という発想の「無駄」がぬぐいきれなくなった。なんで、宇宙で暮らさなくちゃいけないのか……。
 人口があまりに増加したため、地球環境があまりに悪化したため、宇宙へ出る、というのは不可能じゃないかもしれないが、無理がある。その疑問を気にせず、「宇宙に住むのは男の浪漫」なんて言いながら描く方が良いようである。
 ところで。
 例のセカイ系長編の問題点が、結末が近づくにつれて「目的が無いこと」に集約されてきた。展開は決まったのだけれど、正直、どうして書く必要があるんだか分からなくなってきた。展開をおもしろくすることを心がけてはいるが、肝心な中身はさんざんである。でも書く。あわれなものだ。
 そういえば。
 ワールドカップどころじゃなく、明後日、いよいよセイザーXが最終回である。一回だけ見逃したけれど、見事、最初から最後までを見届けられそうってんで、わたくし、ワクワクしている(レンタルDVDで劇場版もきっちり見ているのである……ようもまああれを映画にしたものだ)。セイザーXのあとは何が待っているのか。次回作は、途中で海外へ出てしまうので最後まで見ることが出来ないが、きっと楽しいに違いない。
 ちなみにセイザーXの楽しさというのは、断然、制作陣が好き放題につくっているところであった。
 ヒロインは可愛くないし、主役たちも貧相ぞろい。颯爽と登場した隊長はオッサンで、どういうつもりで登場させたのか分からない准脇役たちは異様な存在感を見せつけた挙句、速攻で死んだりして。途中で主人公の髪型が若向きに変化したと思えば、制作費が増えたと見えて、突然ワイヤーアクションが導入され、ロボットの変型が模型から、模型より貧弱なCGに変化したり。オープニングの歌は1番から3番に変えて安上がりに変革を示し、エンディングの奇妙なセイザーX体操は最後まで押し通す……ちなみにこの体操は、わたくし、全部踊れるのである。
 とにかく。
 いよいよ明後日、セイザーXの最終回。
 無茶苦茶なヒーローものを、最後くらい是非見てください。土曜の朝9時から。何とかレンジャーや仮面ライダーよろしく、さまざまなグッズが販売されているらしいのだけれど、わたくしはまだ一度も目撃したことがない、そんなコナミのヒーローなのです。

 2006/6/20 於母影

 何だか、ちゃっかりサッカーに興味を示しているような日記が続いているけれど、こういう記事があった。
 http://iori3.cocolog-nifty.com/tenkannichijo/2006/06/w00_7fb9.html
 要するに、日本が勝てないのはクソ暑い最中に試合をさせた電通が悪いということだが、まあ、そのとおりであっても、暑いのは対戦相手も同じじゃないか……??? (デモ 0対0ノ試合ハ 双方 バテバテデ ツマラナイ展開ダッタ ラシイカラ、トリアエズ電通ガ悪イノダネ)

 さて、小説のことを書こうと思うのだけれど、昨日は長編に触れずに、あさりよしとお「金田はじめの事件簿」を読んでいたから、書くことがない。
 ところで今日から、森鴎外全集の13巻だったか18巻だったか、「於母影」「長宗我部信親」などが掲載されているものを読み始めたのだが、鴎外の漢文・詩歌の技量に仰天。どこをどう励めば、この域にまで至れるのかしら……せめて近づけるのかしらと途方に暮れてしまう。
 オマエゴトキガ アノ森鴎外ニ イクラカデモ近ヅケルモノカネ? などと嘲笑が聞こえてくるけれど、芸術に挑もうってのに最高地点を目指さないのはくだらないし(しかも現代に森鴎外を復活させたって足りないのであるから、いっそう無理である)、せいぜい、傍らに鴎外全集を置いて日々、わたくし自身を強迫しようと思うのである。

 2006/6/19 「庄屋の死骸(算段の平兵衛)」作後贅言

 猫も杓子もサッカーサッカーで、正直、鬱陶しいことこの上ないが、どうやら日本戦はあと一試合で終りそうなので、ひとまずほっとしている……いや、むしろ日本戦が無いのに、その後もマス・メディアはサッカーサッカーと叫び続けそうなので、それでは余計に邪魔くさそうである。
 なんてことを書いていると、非国民的ひねくれ者扱いされそうだけれど、サッカー日本代表が勝つか負けるか、興味ぐらいはあるのである。が、それよりも、あの狂態を目撃するのに疲労して、こりゃ朝のTVニュースさえも、30分のDVDアニメに切り替えた方がよほど有意義かもしれないぞ、なんてことを思うのである。とりあえず、新聞はやめて良かった。
 しかし、韓国などでは、サッカー熱が高すぎるものだから、試合の翌朝を休みにするところが多いのだという。イギリスでは試合観戦のための仮病が流行しているそうで、日本も、あの狂態を眺めると、いずれそうなってしまうかもしれない……ということは、屍ばたらきを継続しなくちゃならない身では、望まれる話である。

 さて、「庄屋の死骸」というか、落語「算段の平兵衛」に関する贅言。
 これは、まったくひどい話である。勧善懲悪の念が欠如しきっていて、展開にも無理が生じている点からも、作者あるいは噺家がただおもしろがってつくったようなものかもしれないと思わせたけれど、妙に好ましく、短編に書き直すことにした。
 で、「阿武松」や「たちきれ線香」を書き直したときと同様、ほとんど書き直す意味が無かったような一編となったが、小説として無駄を省くことはできたので(そのために落語の持っていたおもしろみを削いでしまったが)、いずれこういった書き直しにおいて、個性が出せるようになるんじゃないかと思うのである。
 基本的にわたくしは勧善懲悪が好きであるし、途中で歴史背景をしっかりしない時代物が味気なくなってきたこともあったけれど、ちょうどライブドアやら村上ファンドが濡れ手で粟をした挙句に袋叩きにあっている頃合いだったので、さっさと書き上げてしまうことに決めた。
 さっさと書き上げたので、次を考え始める。
 ……。
 ……。
 ……。
 SFをやろうかな。

 2006/6/12 サッカー、興味ないです

 朝6時20分に叩き起こされ、うだうだ言いながら6時半からNHK教育TV体操をするようになって丸1週間。 見事、三日坊主は突破した。
 6時半からのTV体操というのは、わたくしの父親が延々続けているのを幼い頃から見ているもので、これまでも時として体操をしようじゃないか、と思い立って起き出すものの、三日と続いた試しがなかったものである。 今回は、一週間坊主には成長できた。
 これを行うと、胃が活性化して、朝飯が満足に食えるし、朝から自分が頑張ったという気合が入るので夜もなまけず、くじけずに小説が続けられて、そのために夜遅くまで小説を書いていたら翌朝起きられなくなる、という構図があるわけだけれど、まあ、ぼちぼちやるしかない。
 ところで、この10分間の体操の次の番組が、「ことばおじさんのナットク日本語塾」という5分もので、これが実に良い。日常のおかしな言葉というのを毎回一つずつ取り上げて、その中身を解説するものなのだけれど、決して、そのおかしな日本語を否定したり嘲笑したりせず、言葉は変化するもの、という前提に立って、その言い回しの背景・構造を説明してくれる。
 ついこの前取り上げたのは、「お名前様をちょうだいできますか」なんていう言い方で、名前に「様」「御」をつけるなんて馬鹿丁寧すぎて臍が茶を沸かす……と言うのではなくて、「敬語であっても使い古されると敬意が下がる」という点を説明して、だから次第にこの奇妙な言い回しが広まっていった、ということを説いた。なるほど、ナットク、である。
 それで本日は、「とんでもございません」である。
 正直なところ、わたくし、これがオカシイ、とは知っていても、どこがどうおかしいのかが解けなくて、「とんでもない……とんでもありません……ありません→ございません……別におかしくねえじゃねえか……???」と首を傾げていたのだけれど、ことばおじさんが快刀乱麻、単純明快に「『とんでもない』は形容詞です」と。
 あっ。
 ほかにも、「せわしない」「あじけない」なんて例を引いて、「とんでもない」を丁寧に言いたいなら、「とんでもないことです」「とんでもないことでございます」と、要は、普通の形容詞として言うのが正しいのだけれど、「とんでも・ありません」系の発言は、人々がこれを形容詞ではなく挨拶語だと考えているために広まっていると、説明。つまり誤用ではあるが、成立背景を考えれば、“不思議はない”のだと、なるほど、ナットク。
 この5分番組には、その日の言葉に応じた寸尺劇が挟まれて、今日は、会社の電話応対の風景で、隣の人が「とんでもございません」て変じゃねえの? と言うと、
A:おまえ馬鹿だなあ、「とんでもない」を丁寧に言うと「とんでもございません」になるんだよ。「ない」を丁寧に言えば「ございます」だろう。
B:はあはあなるほど。とすると、「みっともない」は?
A:……みっともございません、だろう。
B:はあはあ。それじゃあ、「きたない」は?
A:え? ……きたございません、だな。
 ちょっと記憶違いかもしれないが、おもしろかった。
 
 そうそう、ワールド・カップ・サッカーが始まったようだが、新聞取ってないし、TVもあまり見ないから、興味がない。いや、日本が勝つか負けるかくらいは、興味があるか……マス・メディアが貴重なニュース時間をつぶして、サッカー日本代表のコンディションは……なんて話をしているので(ナンテ、ロクデモナイ情報ナンダ!)、そりゃ、結果くらいは知りたくもなる。マス・メディアの情報操作のたまもの。
 情報操作のたまものといえば、このごろ徐々に、村上ファンドやらライブドアが悪者に思われてきた。
 新聞をやめてTVもあまり見なくなると、「世間の熱狂的な話題」に興味が失せる。 そう考えると、マス・メディアが盛んに宣伝しているものに熱中している連中というのは、本当に、心底、マス・メディアの情報を渇仰しているのだなと推察できる。熱狂するためには、事前にたくさんの情報を浴びていなくてはならないということがあり、TV番組を丹念にチェックし、サッカー・マガジンを購入し、応援グッズを買い漁り、そしてパブリック・ヴューイングへ出かける。 熱狂するためにはこれほど事前の準備(金と暇の提供)が必要だというわけである(もっと準備項目は多いかな)。
 ちなみに上記でカタカナが多いのは、馬鹿にしているためである。
 南米などと同様に日本でもサッカー熱が上がり、またヨサコイ大会やら日本ど真ん中祭(愛知県ローカル)が南米のカーニバルよろしく各地で異様な盛り上がりを見せている昨今、一般大衆が、南米の連中と同程度まで(自主規制・三文字削除)しているような気がしないでもない、と書くのは別の折にする。

 2006/6/7 幕末

 東洋文庫の「京都守護職始末」という二冊組が、以前、岡崎のBOFで百円で出ていて、ありがたやと購入、読んでいる。
 幕末の京都の様子が、京都守護職の松平容保の立場から書かれていて、非常におもしろい。特に、孝明天皇のご信頼ぶりには驚いた。
 これまでは幕末についてあまり興味が無かったのだけれど、これでにわかに関心が出てきた。 幕末関連の学術書、というほど大層なものじゃないが、「日本の歴史」だとか、今までに割と読んだものだけれど、あまりおもしろみは無く、司馬遼太郎を読んだところで興奮も無かったのだけれど、幕末に関する「手記」はすばらしいと感じた。学術書などではなく、当時の人の手記こそ読むべき書籍だったのだなと、妙な感動を覚えた。
 幕末といえば、どうしても腑に落ちないのが、尊皇攘夷など、思想の熱狂である。愚かな連中の発狂はいつの時代でも存在するので取るに足らないが、優れた志士たちが尊皇攘夷にせよ何にせよ、盲目的に狂奔している(ように見える)のが不思議でならない。
 盲目的な狂奔をしている愚か者の中で、優れた志士たちが苦しんでいる、という絵も思い浮かぶが、どうだろうか。
 いずれ小説にしたいと、幕末に関しては初めて、思った。
 例の長編と並行して現在は、落語「算段の平兵衛」をもとに小説を書いている。 久しぶりの時代劇なのだけれど、上記の幕末記録を読み込んでいるうちに、確たる背景の無い時代小説が、どうも浮薄、陳腐に感じられて仕方がない。
 もっとも、「算段の平兵衛」については、時代を描くことに主眼をおいているわけじゃないので、まあ、とりあえず続けてみる。

 2006/6/1 身の丈

やはり村上ファンド不正疑惑というのが来た。インサイダー取引なんざ、大投資家を叩けば絶対に出るに違いない疑惑なのであるから、むしろ、あれだけマスコミを踊らせているところがその程度の疑惑で済んでいるのだから、村上ファンドというのはきわめて健全であると言えるんじゃないか。捜査側はもっと大きな犯罪を被せようと血眼になっているだろうしマス・コミはよだれを隠しきれていないが、どうだろう、ほかに出せるのかしら。
 人が働くのは金儲けのためであるとすれば、村上ファンドだとかライブドア式のあぶく銭的金儲けは理想である。その本音を隠して、地道に汗水垂らして働いて金を稼ぐのが人間だ、なんて言うのはそらぞらしい。とはいえ、あぶく銭的金儲けでは、どうも充実感が足りないのか、「時価総額で世界一を目指す」だとか「投資家の立場で社会貢献」だとか身の丈に意味不明なくらい合わない目標を抱えてたいへんなことになるのは、「努力しないと働いた気にならない」人間の業なのか。
 どうも近頃、立川談志の落語ばかりを聞いているから妙な文体になる。
 さて。
 例の長編小説は、またぞろの一週間ほどの休止のあとで苦しみつつ懲りずに継続している。
 で、このごろ感じているのは、どうやら「少々重荷だった」ということで、過重な題材に手を出してしまったと、ようやく思い知った。考えてみれば、超巨大な構造物によって人類が滅ぶ、なんて題材は並大抵の技量じゃ扱えないものであり、それを気楽に、30ページのセカイ系で、なんて算段が愚かだったのだ。すでに、「セカイ系大衆小説」というファイル名にしているのに、世界に主人公とヒロイン以外みんな無しというセカイ系ではなくなって厄介な人物群が有象無象現れる始末。正直、手に負えねえ。
 今の身の丈に合っているのは、ご覧のとおり「地底人類もぐら」のような適当な話ではあるが、しかし、身の丈のものばかり書いていたんじゃ成長は覚束ないのであるから、この苦労をしのいで、9月締切に間に合うよう仕上げなくちゃならないと、半ば呆然としている。この分では9月締切にギリギリである。やれやれ。
 それじゃ、嫌なら止めればいいじゃない、という噂が聞こえてくるかもしれないが、もちろん、大好きなのである。
 そういえば、犬HKニュースによると、どこかの田舎で、狩衣姿の若者が洞穴の氷室から氷を切り出してくる、なんてイベントがあったようであるが、そのときに、気取ったような三十くらいの女が、「こんな場所で、こういう、みやびやかなものが見られて良かったです」なんて言っていたのは、身の丈に合わない言葉遣いの例である。
 身の丈の示し方で憧れるのは、柴田錬三郎の随筆で知ったのだけれど、阿川弘之老が、一昔前に作家仲間と旅館へ行ったときに一筆求められ、宿側が「何でも構いませんから……」と言うので、心底めんどくさかったんだろう、色紙に書いたのは、ア、イ、ウ、エ、オ。それを見た柴錬先生から「それじゃひどすぎる。せめて李白でも書いてやったらどうだ」と言われると、ふん、と言って白髪三千丈の白文を書き付けたんだそうである。
 カッコイイ!


みなみやま入口