あ や ま り 堂 日 記

みなみやま】 (16/06-12)



ナツメグ+シフォン現況   2005年07月28日
  
 一度、先週末あたりに書き終わった。
 それがどうも不本意な結末で、こりゃいかん、書き直すか次書くかどうするかと思い悩んで半日後の結論は、やっぱり書き直そう、であって、今は書き直し作業中。
 無目的に、若干の言い回しを書き直す程度じゃ、時間の浪費であるゆえに、考え、見つけたのが、
「より、はっきりとさせる」
 ということで、特徴をより際立たせる、という方針で書き直しを為すことに決めた。
 具体的には、結末でシフォンが虫にたかられる、という嫌な場面があるので、シフォンの虫嫌いを際立たせ、すると、冒頭でシフォンを虫まみれにしてやれる。
 こうなると、冒頭から登場するのであきらかに主人公はシフォンということで確立し、視点が安定、このためナツメグとの違いをはっきりさせることが出来、シフォンのやさしさに対比されるナツメグが、鬼になって行く。口の悪さに磨きをかけられる。
 こうして書き直してゆくと、自分で驚くくらい、おもしろい小説に化けて行くのであって、わたくし、まだまだのところにいたのだね、と成長を覚えて安堵することができるのである。

 ところで今、腹が痛い。
 冷えたらしい……。
   



   日本語誤用   2005年07月14日    
  
 世間に深刻な話題が途切れると、マスコミに日本語調査なるものが載る。
 そして、これを見るたびに、私は、不快になる。
 日本語が乱れてる、間違った言い方が広がっている、と叫んでいるやからが、そもそも乱れているし間違っているに違いないからである、という程度の不快理由は、中学くらいで卒業しているゆえ、そんなことはもう吐かない。
 不快の原因は、調査をするやからの態度にある。

 まず。
 誤用の状況を調査をするということは、「正しいのはこれだ!」という正答が調査用紙の裏に記されているということである。
 そして、正解か間違いかを調査するのだから、「これは間違いなんだけどねえ」なんていう選択肢あるいは設問を並ばせているということである。
 要するに、意地が悪い。もしくは、意地汚い。
 率直に言えば、奴らは人を馬鹿にするために「調査」しているのである。毎度毎度、蹴り飛ばしたくなる。
 もう一つ。
「次のうちは正しいのは? 『会社が学生を青田刈りする』/『会社が学生を青田買いする』」
 なんていう設問自体。
 こんなものは、日本語の用い方云々ではなく、クイズである。
 これを以て「日本語誤用」なんて偉そうな、意地汚い文句で人を馬鹿にするのではなく、せいぜい「義務教育時代の国語の勉強がおろそかになっている」とか「記憶力の低下」「雑学が減っている」とでも言っていればいい。
 そして、さらにいっそう不快になるのは、
「ダカラナニ?」
 である。



  そういえばもう一年   2005年07月13日  
  
 このあやまり堂日記も、そろそろ一周年。
 時の経つのをこのように実感することは、気味が悪い。
 さて間もなく次の短編が行けそうである。
 きっと、ぬるい手前勝手な恋愛ものになると思われる。
 パンダ耳の超能力メイドによる一大バトルは、後日。たかのの絵が出来てから。

 ナツメグ+シフォンは、快調のような不調のような速度で、現在原稿用紙百枚程度のところを読み返し中。気付けば分量が増えていて、さくさくと読み返せないでいる。
 ナツメグの口の悪さと、シフォンの幼さが、日々拡大している感。
 ぼちぼち書き切って、すぐに次へかかりたい。
 何にせよ、濫作したいのだ。
  



  万博記   2005年07月12日    
  
 昨日、万博へ行った。
 屍ばたらきの一環であって、自前で事前購入した安売り入場券ではないもので、行った。
 事前購入は、とりあえず、野次馬根性で一度は行くと決めていたからであって、別段、行って何かみたいものがあるわけではなかった。
 それで、昨日。
 歩き疲れただけだった、という程度の苦情を言うのは物足りないので、もっと悪口を並べることにする。
 まず、おもしろくない。
 そもそも興味がなかった、という私の事情は、各国、様々な企業が展示を出すのだから、そこには銘々で興味を引き出す工夫があるべきであろうという手前勝手(軽薄語でいえば顧客満足)な議論によって、要するに、おもしろくなかった、ということになる。
 各国館ではそれぞれの特産品、風物がガラス越しに並べられているのだが、三十年だか四十年前の前の万博ならいざしらず、これほどTVと交通手段の発達した世の中では珍しいとも思わない。とはいえ、ラオスだったか、建物の中に大掛かりな仏堂が建ててあって、これは良かった。実際に見る、ということの価値があった。
 企業の展示も同じ、とはいえ、大きな会社、たとえばトヨタや日立は、見物するのに半日を費やさなくてはならなくて、その挙句に何だかどうでもいいようなものが見られるようだが、それでも、トヨタのロボットを見るために半日並んでいる人がいる! という評判は物凄い宣伝効果を生むことになるので、長い行列をつくっている企業館については、さすが××……という感覚を与えた。 この感覚は、さまざまなところ(マスコミから個人ブログまで)でレポートされていると思われるので、いっそう、さすが××、ということになる。
 もうひとつ。
 何の気なしに、瀬戸日本館へ行った。
 整理券があと5枚!
 といいわれたので、貰って、中へ入ったら、
「群読叙事詩劇 一粒の種」などという、私にとってきわめて不快そうな入場整理券を渡されていて、パンフレットには、

つなぎ直そう。人と自然
感性を磨くと、自然と生きる素晴らしさが見えてくる。
(ただし上段の文字の大きさは下段の4倍)

 このような実に糞臭い(第一行目の読点の使い方が格別に臭い)テーマで、三階建ての構造の建物を下から順番に巡って行くという企画が実施されていた。
 一階は、十分間の立ち見で、観客百人ほどが、ナチスのガス室のような空間押し込められ、周囲四面のスクリーン(波打つように歪曲した和紙)に映し出される映像に、感動する、というものであった。 日本人の「知恵・技・こころ」の体験空間なんだそうである。
 映像は、例えば着物の柄や赤や青の和傘、紅葉、夕月、一般概念化された「日本の四季・花鳥風月」を次々と、秩序なく垂れ流すというもので、ちょうど、十五秒ずつ裁断すれば、デパートの正月初売りセール、のコマーシャルに使えそうな映像であった。
 これが、実に不快であった。悪趣味の押し付けであり、独善と自己陶酔の、早送りの、オン・パレードであった。これについての、パンフレットの文句がふるっている。
「美しい日本の自然と、心地よい暮らしの原風景が広がるプロローグ空間で、あなたはどんな『知恵・技・こころ」を体験するでしょうか。」
 すでに、心地よいと決め付けている時点で、破綻しているのである。そのことに気付けていない。

 で、肝心の「群読叙事詩劇」である。
 副題。〜響きあう知恵の記憶、わたしがはじまる。
 パンフレット。(略)次から次へと展開していく一息の舞台を通じて、あなたの中の「知恵の記憶」が響き、一粒の種となって残ることでしょう。
 円形でぐるりと舞台中央を取り囲んで観客が座るのだが、その背後に、演者が立つという独特の構造で、その中で演者三十三名が全精力を傾けて、台本を「群読」するのである。
 集団が、大きな早口で、童謡やわらべ歌を斉唱し、それにあわせて赤や白の証明が激しく変化するのであるが、これを評するならば、
 白痴に対する独善と根拠のない優越感の押し付け、とでも言ってしまえ。
 まったく陳腐かつ不快であった。

 ところで現代芸術は、この、白痴に対する、というところが重要で、「これが芸術なんだよ!」と開き直った者が、何かのきっかけを経て誰かの賛同さえ獲得できれば、それが通用してしまうようなところがある。
 誰かの賛同というのは、外人であればなお有効である。
 開き直った作品が、とりあえず強烈であればいい。

 そんな悪口を述べたところで、とうとう完全に飽きたから、昨日の万博記はここまで。
 
  



   若者   2005年07月06日  
  
 昨日からラルクの新アルバムAwakeを聞いている。
 裏側の事情ともかく、若いね!
 それからちょっと前にサンボマスターをCDレンタルして、かなり良いと感じている。
 若いね!
 Asian Kung-fu Genelation (つづり不明)も好きである。
 若いね!
 あと氷川きよしとか、大好きである。
 若い、ね!

 ちなみに本日の日記は、最初の一行目だけです。
  


  
   贅言に書こうと思ったがそれほどでもない   2005年07月05日    
  
 中日新聞朝刊には、記者による署名コラム「ペーパーナイフ」というものがある。
 ペーパーナイフというのだから、ナイフのような切れ味は無く、せいぜい二つに折られた紙媒体を裂く程度、ということなのだろう(この点、正直である)。
 その6月25日付けで、「村瀬悟」という人の署名(偽名かもしれない)で、「学校の体質」という、かぐわしい文章があったので紹介する。


「がぜん、やる気を出しちゃってね。すごい教育効果だったよ」
 通学路に不法投棄されたごみを片づけ、そこに花壇をつくるという小学生らの取り組みを、かつて取材した。子どもの思いを写真とともに地方版に紹介した。後日、小学校の校長がうれしそうに報告した。「新聞に載り、周りからも注目されて責任感が生まれたようだ。実はちょっと落ち着きがなかった児童だけに、変身ぶりには驚いた」。こちらもうれしくなった。
 そして最近の話。別な小学校で個性的な授業があると聞き、取材に掛かろうと学校へ連絡した。
「特にPRするつもりはないので取材はご遠慮を」と学校側。理由を聞けば「かつてテレビ取材を受けた時、教師が対応に追われ、子どもたちが落ち着かなくなった。子どもたちにとって、よりよい授業にするために、ご理解いただきたい」。
 強引に取材するわけにもいかず、あきらめたが、本当に「子どもたちのため」になるのか引っかかった。新聞に載るのを楽しみにする子がいるかもしれない。落ち着かせようと指導するのも教育ではないのか。
 思いを巡らしていると偶然にも、その学校に通う子の親から連絡があった。「下校中に子どもがけがをしたが、学校側は真摯(しんし)に対応してくれなかった」
 けがと取材拒否に全く関連はなかったが、学校の体質が重なって見えたような気もした。


 丸々と丁寧に引用したのは、私が、大意を曲解するために都合よく省略したのではないかと言われないためである。
 この悪文の放つ、新聞記者様の放つ芳香。

 まず、2段落の、「小学校の校長がうれしそうに報告した」という、「報告」。
 一介の新聞記者に、小学校長が「報告」するのである。 どうやら、校長は、この村瀬記者様の部下らしい。

 そして5段落目。
「本当に『子どもたちのため』になるのか引っかかった。新聞に載るのを楽しみにする子がいるかもしれない」
 村瀬悟様は、取材して新聞掲載させるということに、絶大の自負を持っている。 まあ、埃(字間違い)を持って仕事をしているということで、私のように屍ばたらき、などと、くさしているのに比べれば、羨ましいほどである。 そして、
「落ち着かせようと指導するのも教育ではないのか」
 新聞に載せるということはすばらしいことなので、子供様が騒いだら、てめえら教師が注意しろや。 俺は取材してやる立場なんだから、てめえらでお膳立てしろやタコ助。 こういう思いを巡らしていると、偶然にも!
「その学校に通う子の親から連絡があった」
 自分の子供が事故に遭ったといって新聞記者に通報するような人を、私は、私の狭い範囲の人生では、知らない。
 それにあんた、真摯な対応って……。
 VIVA、シンシという用語。

 以上、私が、中日新聞を下等であると思う次第の、一端。
 そもそも論ずる価値などなく、くさすなら引用だけでよかろうとも思ったが、まあ、贅言の蛇足。
  



   やっとネット復活   2005年07月04日    
  
 やっと、我がコンクリート住宅でネットが使えるようになった。
 で、日記として近況を書こうにも、相変わらず小説しかないので、それを書く。

 ナツメグ+シフォンが、例の如く苦しい近ごろ。
 ふと気分を変えて、原稿用紙枚数で数えてみたら、百枚になっていた。
 現在の話は、「短編をつなげる」の、最初の短編つまり長編の序章のつもりであったのに、気が付けばこれだけで中編あるいは長編になっていた。
 そりゃ苦しいはずである。
 百メートル走の勢いで、長距離走に突入していたのであるから、息切れもする。ちと語弊はあるが。
 ということで、この「中編」は、ネットに載せた短編を第一章にするということで、長編二百枚程度の中盤とする。
 それにしても……よう喋る小説ゆえ、グングン量が拡大する。
 ネットの短編も、原稿用紙十五、六のつもりが、数えてみたら三十枚あった。
  



  時間が出来さえすれば   2005年07月01日  
  
 二つの案。
 私の中での、キャラクター小説強化月間のしめくくりとして、萌えっ子小説を仕留めたい。
 モチーフは、パンダ。
 猫耳では、少々不満なので、パンダにする、というそれだけの理由なのだが、魔界のプリンセスで、無気力な人間を堕落させて地獄へ招きよせる、ということを目的として、メイドカフェを経営する。
 敵は、天使。
 無気力な人間を正義に目覚めさせて天国へ吸い上げる、ということを目的として、堕落の根源、メイドカフェを叩き潰そうとする。

 萌えっ子、派手なドンパチ、をやりたいのである。

 もうひとつは、ぬるい恋愛。これは、論ずるまでもなく、勝手に一人で書いて一人で悦に入りたいやつである。


  まもなくネットが復旧する   2005年06月22日  
  
 まだ自宅のネット環境が復活していない私なのだが、7月のあたまに、ようやくDIONネットが可能になる。昨晩、ひそかに電話が開通した(黒電話である)。
 こういうあたりで、張り切って書かねば、と思う今日この頃。
 「悪霊退散ッ!」が非常にうまくいって、ナツメグ+シフォンもうまく書き切れたらと祈るような気持。
 



  主人公像初歩   2005年06月16日  
  
 どうやら、主人公に「大きな目的」が無いと、いまひとつ、ぱっとしないらしい。
 不思議なもので、あらかたの人生に大きな目的なんて無いと思われるのに、読者として感情移入しようとする主人公に、大きな目的が欲せられている。
 普段、鬱屈している自我を、大きな目的に疾走している主人公に理想形として投射する、なんていう解釈は、どうも納得がいかない。
 逆に、読者には、潜在的には、大きな目的があるのかもしれない。
 完全に異なっている場合には、感情移入がしにくいはずである。

 ちょっとよくわからないので、備忘としてここへ書き付ける。



  みだらづくりの2   2005年06月13日  
  
 快調に、似非時代劇ファンタジーが進んでいる。
 もちろん、ナツメグ+シフォンの長編も進んでいるわけだが、こちらは進んでいる、以外に話題がない。
 似非時代劇ファンタジーに関しては、題名を「悪霊退散ッ!」にするかもしれない。今は、その題名がくっついている。
 この似非時代劇ファンタジーが、やっぱり、時代劇なので、気持ちよくて、ナツメグ+シフォンの次は、イナゴ侍ではなく、こっちで長編が書けるのではないか、という気になってきた。
 短編をつなげる、という作戦が、この「悪霊退散ッ!」で最高の形になりそうなのである。


 そういう次第で、ええっと、たかのって、着物描けるかや?
 あと、今週土曜は何時に来てもらってもOKでござる。
  



   濫作、みだりづくり   2005年06月10日    
  
 本日掲載した短編一本、これの次もまたキャラクター・ファンタジーの短編、という気分。
 どうせ私の文章は時代劇になるのだから、時代劇ファンタジーにしてしまえば良い、という思いつきで、インチキ時代劇でやってしおう、と言うより、それで書き始めている。
 舞台、日光江戸村によく似た町、名前:なし。
 主人公、男、侍、浪人、名前:ヨージロウ。
 ヒロイン、女、巫女、名前:コハル。
 重要人物、チャイナ商人あるね。謝謝。
 敵人物、こちらはカンフーの達人あるよ。アチョー。

 主人公の名前をカタカナにしたから、ファンタジーであると胸をはる。
 ちなみにこれを早々に書き上げることができたら、次のヒロインは超能力を持つ猫耳メイドさんになる。




   昨日、復調   2005年06月07日    
  
 ちと行き詰まりを感じていて、例のごとく、さて最初から書き直すか、だとか、いや、ここは思い切って別の話を、だとか、いやいや、気分を改めるためにイナゴ侍こそ書き出すべき……などと適当なことを思い浮かべる段階に突入していて、そういう言葉とともにほとんど投げ出す寸前だったわけだが、昨日、とりあえず書いてみるっぺ! という気合とともに書き出して、最初の半枚くらいを乗り越えたら、あとは走る走る。
 1時間を費やして(1時間しか費やせなかったが……)10枚ほど進んでまだ書き足らない、という状況になったので、きわめて満足。
 どういう満足状況かといえば、ナツメグ+シフォンが活躍した山場のさらに先の展開、それから濃い人物二名、書き直しの方法などなど、お宝がザクザク掘り起こせたようなものである。

 昨日、無理して続けて再加速できたことを考えると、今まで放棄した長編、あれも書き方を改めれば再び行けるに違いないわけだ。
 濫作できる。

 近頃の行き詰まりを、
「ああ、文体が定まらない、文体が見つからない」と嘆いていた。
 実際、自作でまずいと思うものは文体に魅力がなく、今までの途中放棄も、だいたい、文章に行き詰まりを見て、逃げ続けていた。
 それで、どういう文体がいいのだろう、そうだ、こういう人物が主人公なんだから、軽快で、かつ不敵で……なんてあれこれ考えあぐね、挙句に冒頭の一文から書き直しを開始しようとして、その一文でけっつまづいて、さようなら、ということが続いた。
 けれど、昨日の復調で考えたのは、文体は、書いているうちにおのずと定まる、ということであり、もちろん、書き出しの段階での意図と、最初の一文がだいぶ左右するのであるが、左右されるにしても、長編ならばどうあがいても長く進むうちに修正されて行くわけだし、また、決定稿を仕上げるのは遥か先になるので、いくらでも修正できる。
 書ききって、あるいは書きなぐっている途中で、定まった文体を、冒頭へ逆輸入するかたちで訂正かける、ということも、悪くない。短編でも、そういう作業は何度もこなした。
 短編と長編の違い、これの一番は、作成期間の長短であることを忘れていた。
 全体の構成からすれば、長編で最初の勢いを失って苦しくなる20、30ページくらいのところは、短編の、起承転結の「起」ないし「まくら」が終わるあたりで、短編において、苦心することは稀ではなかった。
 いや、もちろん、文体が最初から決まるのならそれが一番である。

 ところで、直木三十五という偉い人は、一時間に16枚の原稿を書き飛ばせたらしい。

 もうひとつところで、今週中に、新しいナツメグ+シフォンが載せられます。
 こちらは、長編とは別の、短編。
 並行して、同じ人物、同じ世界の話を書くのは、なかなか、相互に影響しあって、おもしろい。
 そして、掲載用の短編の方がよっぽど優れているように感じるのは、それが先に完成したからであろう。とほほ。



引越し作業   2005年04月29日  
  
只今のところ、私の学習机が身近にないので、不便。
いいかげん、書かないと気が狂いそうだ。

ところで、藤原智美「なぜその子供は腕のない絵を描いたか」という本。
近ごろの幼児の生態に関するノン・フィクション(かなあ)なのだが、
恐ろしすぎる。
祥伝社。
若干、後半の解釈あたりがつまらなくなるが、何より前半の、
近ごろの当り前の幼児の生態についての描写が、恐怖である。
人格形成という哲学方面から読むと、これは、もう、どういったらよいのか。
「人間」の在り方って……どうなんだ、と暗澹としてくる。
作者の程度が高くない分、気取らずに自己満足な文章をつくらず、読みきれる。




   奴らはすごい   2005年04月27日    
  
 一昨日、例の、「内容物:本」の群れが引っ越された。
 わたくしにしてみれば天国と地獄とが同時に存在しているような、馬鹿に重たい10の箱。
 引きずるのも困難、というくらい重量のある頼もしいような怖いような箱箱箱。
 こいつらが、引越し業者たちの肩に、二つずつ乗って、運ばれて行った。
「すんません、ダンボールに本を詰めるときには、だいたい半分くらいにして、残りに服を詰めるなどしてもらえませんかね」
 そういう苦情でも来るかと思いきや、汗だくになりながらも、奴らは二箱を一気にドッセイと担いで、行った。足が床に沈むんじゃないかと思うくらいだったが、奴らは進んだ。
 奴らはすごい。
 引越し先は4階でっせ、エレベーター無しの。
 ほとんど苦行、罰ゲーム、懲役じゃねえの……奴らはすごい。
 何だかんだでこのわたくしも手伝わなきゃいけないんかなあ、でも手伝えと言われても手伝いようのない重さだしなあ……などと思っていたが、奴らはカッチリ運んでいった。
 わたくしとは人種が違うのか、奴らはすごい。
 そして思った、もっと詰めればよかった。
 現在、私の部屋には、詰めきれなかった漫画本がドッカリと腰を落ち着けている。


 列車事故のことはまた書こう。

 ところで、このところのわたくしの日本語、ヘンでござる。
 自分が生きている感覚が、だいぶ薄れているからであろうか。
 眼鏡を外して外を歩くと、視界がぼやけてますます生きている感覚が消失してくれる。最近、ときどき、そうやって心を愉しませている。
  



   葬送日記   2005年04月21日    
  
 放棄決定。
 停滞して溺死寸前だった長編ファンタジーを、放棄する。
 これまでの、おそらく前のナツメグ+シフォンくらいの量は書いてきた(最初の数章ばかりを)わけであるが、放棄する。

 展開のおもしろさ、を主眼に書いて行こうとしていた長編だが、当のおもしろい展開がすでに頭の中では最初から最後まで完結している。
 長編には、目的に向ってゆらゆら揺れながら、一歩一歩近づく、というような動揺を読む、また書く、という意義がある。
 それが、すでに完結しているのなら、書く必要がないではないか!
 ということで理由とする。

 現在書いている「エイプリル・フール」が、どれほど新鮮か。
 主題「描くに足らないものを、描く」に向ってダラダラ進行している。
 自己の確認と発見を為しているわけである。
 この苦労と楽しさ。
 小説を書く意義、について考えさせられたこの延々とした停滞。
 そうだ、新しい小説だ!
 新しい物語だ!


 ちなみに、次の長編、すでに構成が騒ぎ出している。
 この騒ぎの絶頂期に書き出し、一層騒がせる。
 これが意義ではないか。
 題名は、これまた不思議と決定していて、と書くと書き出せないかもしれないが、
「蝗侍 イナゴザムライ」
 である。



  みなみやまページ更新について   2005年04月19日  
  
 二ヶ月ぶりくらいに、ホームページ更新。
 現在の散らかった私の机と同様で、何だか怠惰の証拠を日々見せ付けられているようで、いやだった。
 引っ越すまでは、この散らかりが持続するのかと思うとうんざりする。
 引っ越すからと言って、乱れきっていて良いわけもない。

 で、小説のことですが。
 頭に浮かべている原稿用紙が手に入らないので、書けていない。
 たぶん、また一から書き直す。
 というより、別の話にする。
 空の二人羽織+聖なる白と邪悪な風、で行けば、啓蒙がある気がする……そう祈るような気持。
  



   本、大杉   2005年04月15日    
  
 本が……本が多いよう……。
 本棚の表面に見えている量の、二倍以上の量である。
 どういうわけかといえば、平積み&二重陳列のためであって、ようもまあこれだけございましたなあ……というくらい、次から次へと出てくる。
 アリさんに頼んで、とりあえず小型ダンボールを十箱、運んでもらうのだが、間違いない、入りきらない。すでに三箱分くらいは輸送しているのに、である。
 荷物が少ないからと安くしてくれたアリさんとしては、鼻歌気分で十箱の移送に取り掛かるのだろうが、近くで見た瞬間、
「内容物:本」
「内容物:本」
「内容物:本」
「内容物:本」
「内容物:本」
「内容物:本」
「内容物:本」
「内容物:本」
「内容物:本」
「内容物:本」
 というのを見て愕然とするんじゃないだろうか。
 しかも、鴎外全集やら江戸時代図史なる30冊くらいの図鑑やら、重たいものが満載された十箱の本。
 それで、結論。

  


 頼んでよかった L(>。<)」☆
  



   まどろっこしい   2005年04月14日    
  
悶々としながら続けてきた長編であるが、
やっぱり悶々としている。

原稿用紙に書く。
これをやってみたくなった。
万年筆で、まっさらな白紙(こいつは、以前、私の母者が職場のプリンター刷新に際してもらってきた、上と下に点々と穴の空いたやつで、大学4年間は、それに下書きをしてからPCへ入力する、ということをずっと行っていた)に書くということも悪くないのだが、でもやっぱり悪い気がして、いや、きっとそういう細かなことが気になっているあたり、この長編がちっともうまく行っていないというわけなのだが、でもいずれにせよ、思い立ってしまったら実行しなくては耐えられない性状だから、原稿用紙でいきなり書いてみることにする……と、若干、金がかかるようになるのだが、まあ、そのくらいは、なんて言うと大金を費やすことになっちまうかなあ。



   さすが   2005年04月09日    
  
 クレヨンしんちゃん映画「夕日のかすかべボーイズ」
 毎年の映画にこれだけの水準の作品を続けられるというのは、どういう製作陣営なのだろう。
 クレヨンしんちゃん、については、当初の、下品でなまいきなクソガキの漫画、という次元から、いつの間にか、家族、が中心に来ることが増えて、いつの間にか10年以上も続く日本文化の一角に食い込むこととなった。
 これは、おそらく原作者の能力不足のためであろう。
 下品でなまいきなクソガキの漫画、というところから、ネタ不足のために違いない、家族へと話題を広げていって、友情についても言及するようになった。
 そこへ、映画である。
 やはりDVDを買おう。

 ちなみに、購入したいDVDとして頭に浮かべているのは、
 クレヨンしんちゃん「モーレツ大人帝国の逆襲」
 劇場版パトレイバー2
 攻殻機動隊
 そして、クレヨンしんちゃん「夕日のかすかべボーイズ」

 そういえば、来週から映画館で、新作が公開される。
 観に行きたいのだが、さすがに、はばかれる。
 それもあるし、観客にガキが多そうで、それが鑑賞のさまたげになりそうだし、何より、私は一人で見入って、歓声を上げたりしたいのである。
 
 本日は花見日より。
 岡崎城公園は、花さかりだったようで、すぐ近くのショッピングセンターに車がビッシリだった。邪魔だった。
 



   自我の所在 考察序の序の序   2005年04月06日    
  
 昨日だったか、日経サイエンスの「記憶を固定する分子メカニズム」なる文章を読んで、はたと、大学卒業論文以来腑に落ちきらなかった部分が氷解した気がして、それを誰かに話したいのだが理解してくれる人がN先生くらいしか浮ばないので、悔しいのである。
 脳科学者が首を傾げて、そして必死に探し求めようとしているものといえば、「脳への最初の指令を出す存在」である。
 あらゆる感情というのが、主として脳による電気信号という次元にまで分解できるのは、明快な科学的解答であるが、とすると、この私の心、感情というのは、いったいどこから発生しているの? という疑念が、解消されないのである。言葉遊びじみてきたが続ける。
 脳がすべての感情のもとになる、というのは、脳科学者のだいたい一致した見解である。
 で、このわたくしが、今から何かをしよう、と考えた時については、どこそこの部位が電気的な興奮状態になる、ということも、だいたい科学的に判明しつつある。
 が、では、今からコレコレを為そう、という脳の様々な部位の反応を起こす最初のきっかけをつくるのは脳のどの部分なんだろう? そういう疑問を、脳科学者は抱きつづけていて、それで、「……メカニズム」の文章の冒頭解説では、「記憶を脳にとどめるための指令はニューロン自信が出しているらしい」と言っている。
 のであるが、この考え、そもそもどうでもいい奴を想定している。
 魂。
 永遠不滅の魂というやつを、どうしても想定したいキリスト教の影響が残っているために、電気的な信号、純粋物質的存在に還元されてしまう心の在り方へ、「最初のきっかけ」という、魂とも呼べるような部位を探したいらしいのである。
 だが、わたくしが抱いた結論として、きっかけとは、外部である。
 到達した電気信号が、脳で取捨選択されて、反応をもたらすのである。

 では、その取捨選択するのは誰か、というところで、ふたたび「最初のきっかけ」ないし「固有の魂」が登場しかけるのだが、蹴り飛ばして、ここにヒュームの言う「観念の束」を持って来る。電気信号を取捨選択するのは、それまでに形成されていたニューロンやら分子メカニズムでつちかわれていた回路であって、「好きなことは覚えが早い=ニューロン結合が容易になる」という科学と日常の正論を引っ張ってくれば、その回路が如何にして脳の各部位を刺激することになるかは、固有の魂などの預かり知らぬ、「でまかせ」に近い状況になる。

 というあたりで、オイでは心はでまかせかよ、俺のこの意志というのは何だよ、意志なんて無いの? いや、現にあるじゃねえか、ここで俺が文書を書いているってのは、俺の自発的ないしじゃねえか、という次の展開に向うのだが、これは、あいだ、で解説できる。

 それから、それでは倫理やら価値観の共有だとかいう話はどうなるねん、という方向へも進むのだが、こいつは、だので、「あるべし」とは言えないわいね、という結論になる。

 としたところで、備忘の役割は充分だろうから、長く混沌としてきたのでやめる。 
  



   世界の中心で愛を叫ぶってんなら、叫べよ   2005年04月05日    
  
 読書感想文。
 BOOKOFFで100円だった、世界の中心で愛を叫ぶ、を読んだ。
「泣きながら一気に読みました」
 という売り文句のうち、「一気に読みました」は、その通りだった。味のないスカスカした文章で、すらすら読み進めた。というより、サクサク読み進むほか読み方が出来ないようなまずい文章であった。
 内容もまずい。
 純愛もの、というが、人物造型の未熟と作者都合の妄想が織りなすたわごとに過ぎず、わたくしの所属していた大学同人誌と同じ臭いがした。
 泣ける泣ける、というが、わたくしはあまりにひどい人物と展開に感情移入どころか物語を感じることが出来ず、それに泣けた。
 唯一、おそらく低劣な河童なみの読書力を持つ輩が泣きまくった!と言うだろう、ヒロインが致命傷を負った時に主人公が口にした言葉が、良かったと感じた。
 で、ヒロインが死んでからも二章だか三章ほども引っ張ったが、くだくだ言う作者のたわごと(主人公の祖父に言わせているがあまりに青すぎる)が鬱陶しく、鬱陶しいまま結末を迎え、いっそう鬱陶しかった。
 ちなみに以前から、「純愛系」のエロゲーに、ああいうのは多いはずである。
 せっかくだから、一気に読みました学習成果を試すために、一発書いてみたいところだが、今はファンタジーに溺死気味である。
 そうそう、ファンタジーが書けん!といった翌日から再び書いている。
  


  書いている   2005年05月30日  
  
 で、どういう状況かといえば、そろそろ第一話というか、短編のひとつが山場を迎えているという状況。
 これから次の短編へどうつなげるかはわからないが、たぶん、出来そう。

 昨日、考えあぐねていたときに思い浮かんだのは、
「題材によって、短編、長編が決まるのであって、書き方自体は、短編も長編も変わらないのではないか」
 ということで、たとえば、前回の長編、かろうじて一次を通って安心を獲得した時につかった勢力は三つないし四つで、そこに小道具が一つ。
 小道具がどこに所属するか、誰に奪われるか、小道具なしの勢力間の争いがどこに入るか、などを考えて行けば、それなりの長さになるのは当然である。 ふむふむ。
 それが、小道具なし、二つ、三つの勢力の争い、だったら、短編、ということになる。

 よくわかんない。
 よくわかんないが、書き続けていれば、何とかなって行く、次々の発見がある。
 そうすると、どのあたりで当ることになるのかは知らんが、いつか、当たる、に至ることが出来るというわけだ。
 よしよし、思うとおりに進んでいよう。
  



  昨日の仮説と今日の仮説   2005年05月26日  
  
 昨日、この体調不良は運動不足のせいではないだろうか、と言った。
 それが正しかったのかもしれない。
 自転車の運動で、本日は、軽い筋肉痛を両方のももに感じているのだが、これのおかげであろう、昨晩の眠りは深かった。
 眠りが深けりゃ、体がもっと休まる。
 だいぶ、鼻の状態がよくなっている本日なのである。

 とはいえ、本日も昨日と同様、この体調不良に関して、新たな仮説が立っている。
 それは、
「週末になると治る」
 というやつで、現在の屍ばたらきの不快から間もなく、一時だけとはいえ、離れられる、こう全身が感得して、それで体調が戻りつつあるっていうことがあるんじゃないだろうか。
 こう考えると、明日の夕刻には、間違いなく、完全回復しているに違いないわけである。
 



花粉症かと思っていたが   2005年05月25日    
  
 今年は、史上最強の花粉が飛散していたとかで、それで私も、5月のGW明けから、遅ればせながら、花粉症になったかと思っていた。
 鼻水が止まらない。
 鼻づまりがおさまらない。
 GW明けというのは、私が引越しをひとまず完了させたころだから、
(なるほど、引越した先に花粉症植物が繁茂していたのだな)
 と納得していたのだが、どうやら、風邪なのかもしれない、と思い始めた。
 なんだか汚い話になるが、鼻水が完全に透明な水っ洟でないことがまず第一で、それから寒いと、くしゃみが連発鼻水がとまらなくなるのだが、体を温めると、少し汗ばむくらいの厚着をすると、くしゃみと鼻水が収まるのである。
 体がなんとなくだるいってのは、花粉症にも風邪にも共通するし、なんとなく目に違和感があるってのも、花粉症と風邪に共通するわけだから、結論としては、
「風邪少々+花粉症少々=鼻水とまらんたまらん」
 という状況になっているのかもしれない。

 というあたりで、本日、もうひとつ、この体調不良に関しての原因に思い当たった。
 引っ越した先で、ようやく昨日、自転車(ちょっと高級)を購入して、それで墓場まで通い始めたのだが、足が、重い。
 痛くはないが、弱い筋肉痛。
 自転車に乗らなかったのは、2ヶ月くらいのことかと思うのだけれど、こんなに体がなまるとは。
 こう考えると、私のこの体調不良は、
「運動不足」
 これが原因になっていたのかもしれない。
 これからは、毎日、往復すると1時間くらいを自転車通いするから、運動不足が少しは改善されると思われる。
 そうすると、願わくば、だけれど、体調が戻ってくるに違いない。
  



  それで、何とか書き続けています   2005年05月24日  
  
 長編を書き始めて二日目。
 飽きが来るなら、そろそろ来る時期。
 ちと怖い。

 ところで、現在、放送大学の「心理学初歩」というのを、国民の税金を活用して学習しているのだが、いやはや、心理学って、どうもしょぼい。
 哲学者と心理学者は、きっと、互いに軽蔑しあって仲が悪いんだろうけど、私は哲学者派だので、やっぱり、心理学者の議論を、しょぼいと見る。

 だってさ、たとえばさ、
「記憶を思い出すときには、蓄積された情報を検索するのだが、
検索がうまく行かないことがある。それを舌の先に出かかってるのに!
ということで、TOT(Tip of Tangue)という」
 なんて言ってるんだけどさ、TOTなんていう、泣いた人みたいな顔文字はともかく、「蓄積された情報を検索する」ってのは、誰が検索するの???
 私?
 じゃあ私ってのは、記憶という情報の層とは別にいるってことですか。
 それじゃあ、「今私が感じている五感」って定義している感覚記憶も、私じゃないのよね。
 だって、「私が感じている記憶」なんだから、私とは別のところに感覚記憶は発生しているのよね。
 つまり「感覚」は私じゃないわよね。
 じゃあ、私はどこにいるって、わかるの?
 感覚も記憶も違うんでしょ?
 私はどこにいるの?
 いないの?
 いない私が、何かを検索して何かを感覚しているの?

 ・・・けッ、くだらない言葉遊びをしやがって。
 と怒る方は、心理学者。
 ああそうだ、くそ、心理学者め、たばかったな!
 と感じる方は、哲学者。

 ちなみに、こういう議論に持ち込めたら、哲学者の屁理屈に太刀打ちできる心理学者などいるわけがない。持ち込ませないのが、心理学者。
 だから仲が悪い。

 何だろう、今日の日記は。
  



それで、何とか書き始めました   2005年05月23日  
  
 きっちり、書きはじめました。
 ナツメグ+シフォンです。
 短編をつなげる、地の文は軽快に、を達成することを目標にしております。
 それから、これとは別に、ネット用に、ナツメグ+シフォンの短編を同時進行させてみます。
 しばらく書かないでいたので、なかなか進化している感覚を得ていまして、山手樹一郎「江戸名物からす堂」直木三十五「仇討二十一話」の二つを読んで、得たところを的確に反映させられたらと思っています。
 人物が元気なので、放棄することなく行きたいのでござい。


  
引っ越しました   2005年05月20日  
  
引っ越して、電話もネットもない。
日記が途絶えすぎました。

こういう次第で、ようやく引越し先で机の片付けも終わったので、
いよいよ、再び、長編に挑む。
今回は、短編をつなげる、を目標にやってみたいと思っている次第なのですが、
このところ連敗続きのような感じなので、さてどうなることやら。

再びは、ナツメグ+シフォンかなと。
イナゴ侍も捨てがたいのだが、ナツメグ+シフォンに会いたいので、そちら。



うむ、そうだ   2005年04月02日    
  
 引越しの仕度を始めた。
 4月の下旬に死体安置所(一般呼称は職場)近くのコンクリート住宅へ越すわけで、そのためにようやくあれこれ移動させる方寸を立て始めたわけだが、そうしたら、気付いた。
 本が多い。
 ッとに、多い。本だらけ。
 人に言われて、えへへ、多いかな、なんて得意になっていたのであるが、実際、多い。こんなにあったのか、と驚かされ、疑われるほど、漫画に小説、学術書。文庫に新書にハードカバー。ドサドサ出てくる。
 出てくる、という表現は適確じゃないかもしれない、別に押入れにしまいこんでいたわけじゃなく現に本棚にあったものであるのだが、次々と際限なく現れる、という感覚にさせられている。(しかもに押入れにしまいこんである漫画本の平積み山もあるのだから恐ろしい)

 とりあえず、引越し先のコンクリート住宅に、天上まで届く手ごろな本棚(180センチの市販本棚だと、天井との30センチくらいの隙間がもったいない)をこしらえようとは思うのだが、それでも収まりきらないに違いない。

 さて、久しぶりのあやまり堂日記をつけたところで、続きを為すか。
 いや、その前に昼食へ行こう。
 ラーメン+餃子が食べたいので、出掛ける。



  だめだァ!!   2005年03月28日    
  
書けん。
おうさ、キッチリと言い切ろうじゃねえか。
書けん!!

筋がカッチリと出来てしまっているから、先へ行くのがもどかしい、というのはある。
だがそればかりじゃねえだろう。
そもそも手に負えない対手だったんだ。
いや、そう言ってしまうのは自尊心が許さないだろうから、
小説作法に根本的な欠陥があるのだ。
くそっ、どこだ、欠陥、誤謬め!!



 そもそも   2005年03月26日    
  
短編の場合は、一つの主題で完結できるから、気楽なのであるが、
長編には複数の主題を盛り込ませることが出来る。
ゆえに長編の読みごたえというのがあるのだが、この複数の主題ってやつを描きこむことが、困難。
おそらく、文体云々も、詮ずる所、主題の曖昧さに行き着くようである。
やっとこの結論に来たらしい。

で、本日分のあやまり堂日記の最初の一文を書いた瞬間に、解決策が出た。
長編も一つの主題で書き始めればよい、ということである。
「空の二人羽織」のごとくに、次の展開をするところで主題完結という、小説の結びを持ってこずに、続ければよいではないか。
同一の主題を続けてもよいだろうし、別の主題へ移っても良い。また掘り下げる別の視点を取り入れても良い。

よろし。
また書き直してやる。
  



   日記の間があいた   2005年03月23日    
  
試行錯誤。
まさにこれ。
書き出しを如何にわたくし好みにするか。
そればかり、書き出しばかりを試みつづけて、もうどれくらいの量を書いたのだろう。
たぶん、前の、ナツメグ+シフォンの全体くらいを、
書き出し部分の書き直しに費やしている。

そして今度は、直接PC入力を試みる。
一行だけ、書いたのは、気に入った。
それが維持できるかは、わからない。

しかし、地の文が定まると、つまり文体が定まると、
主人公が定まってくるようである。
思い過ごしかもしれず、書き出したものを途中で放棄するのは苦しいのだが、
それでも、これこれこれ、と書き出せる時点は、替えがたい悦愉じゃ。



   小説作法について考えつづける   2005年03月11日    
  
 あいかわらず。

 例えば、「最低類」やら「海が遠くに見えた町」「老翁夜話」などなど、短編については、自画自賛できるものがある。
 ところが、長編は、どうも、やはり首を傾げてしまう。
 5日の日記だったかに、長編になると、二十一の頃の文章になっちまう、と書いた気がするのだが、「むささび嘉吉」「五月雨模様」「風もないのにぶうらぶら」という、輝かしい失敗作品たちに共通するにおいが、長編において発生しているのである。
 どういうわけだろうか……。
 このことばかりを考えていて、ようやく思いついたのは、
 文体、
 ではないだろうか、ということである。
 
 「最低類」「妄想高野」「海が遠くに見えた町」「老翁夜話」など、明らかに、文体(地の文章)が踊っていて、それが時にくどくなったり、舌足らずになったりしているのだが、それでも、私の気に入るような出来栄えにいたることが出来た、気がする。
 ところが長編の場合、しかもキャラクターを前面に出そうとしている長編である、会話を増やそうとして地の文を削って削って、挙句の果てに、何だかフワフワしてしまって、私の好みから、結局、外れる、のではないだろうか。
 そういう視点から、「空の二人羽織」を読み返してみたら、これは、キャラクターを前面に出したものの、文体が定まっているお蔭であろう、予想していたより、おもしろかった。
 この、「空の二人羽織」、書き出しに、私好みの小馬鹿にした文言を入れることができたし、乾いた野糞という小道具も文体形成に役立っていたし(半分失敗していたにせよ)、途中で「(駄洒落になっちまった)」という、地の文のツッコミまで入れることができていた。地の文のツッコミなんてものは、とはいえ、蛇足に過ぎないが、そういう蛇の足を加える余裕があって、しかも主人公二人が、元気いっぱいであった。
 私の文体。
 あるいは、作品に合った文体。
 これが肝心、ということである。
 ……あれ、このことは、ありふれた小説作法で読んだ気が……だが、このことを、どうやらようやく、実感できた。
 もっとも、それを意識的に為せるか否かは、今後の努力次第である。



   あらあら   2005年03月05日    
  
 贅言、書けなかった。
 そのくせ例の、「何とかと風」の長編と並行して、やけくそで、ページ掲載した「空の二人羽織」を発展、長編にして、書き殴ってみるべか、なんていう考えになってきた。
 ところで、わたくしが長編を苦手としているのは、人物像が弱いから、ではないだろうか。
 短編では、キャラクターによって物語をひっぱる、という技法を必要としない。
 ナツメグ+シフォンは、サクサクかなり、サクサク出来た。そのために、書き直しに悲鳴が上がったわけだが、まあ、二人の人物が引っ張ってくれた感がある。それだけ愛着がある。
 ちなみに、今までの短編で、愛着ある人物、というのは特になかったりする。
 小説作法をどうにか改める必要があるかもしれない。
 だからといって、今の書きさしの長編がつまらないかといえばそんなことはなくて、このことは、一昨日の自画自賛で書いた。
  


  自画自賛ふたたび   2005年03月03日    
  
「鳴門秘帖」は、書き写しをしていて、それを止めて一気に読みきったわけだが、
このおかげで、書きかけの長編の第一幕が、非常になめらかになった。
 今までの贅肉がだいぶ絞れてきた感。
 長編の、会話が多いものは、どうも「山口二十一」の頃からほとんど進歩していなかった気が拭えなかったが、どうやら、ようやく、じわじわと成長している。

 で。
 書き写しをやめて放送大学の「哲学入門」の個人学習をしている。
 これが大成功。
 眠くならないし、昼休憩という30、40分の時間にちょうどいい。
 今日で第5時間目が終わった。全体の3分の1だ。
 一ヶ月くらいで修了できそう。

 で。
 東京行についての贅言は、たぶん明日の昼間に書く。
 いや、悪口贅言の第三幕が明日の昼かな。



東京   2005年02月28日    
  
 一泊二日で東京へ行ってきた。
 恵比寿の写真美術館で開催中の「ベネチアビエンナーレ日本館の帰国展(通称オタク展)」を見て、翌日(つまり今日)お台場と秋葉原へ。
 非常に、愉快であった。
 思うところがいろいろ。
 今日は眠いので、いずれ贅言で。



さくさく書けている傍で   2005年02月24日    
  
 ファンタジーは快調。
 「生存の目的」を明確にしたことで、人物像がはっきりしていっそう書きやすくなった。

 その傍らで、何か別の短編を書きたい、という欲望が、ようやく一つに定まった。
 今度、社会人ばたらきの関係で金沢へ遊びに行くのだが、それ関連でサーフィンしていたところ、「芋掘り藤五郎」という、割と有名な民話が、興味深くなってきた。
 「金沢」の名前の由来となった、お話らしい。
 それを、ちと小説にしてみよう。
 もちろん、昼間に、であるから、いつ完成するかは未定。

 今日の夕方は不意の雨に弱った。
  



   書き直しまして   2005年02月21日    
  
「聖なる白と邪悪な風」
 などという、ライトノベル・ファンタジーっぽい題名をひねりだしてみた。
 本編でわんさと登場することになる単語をひねっていたら、こういう、何と言うことは無い題名になった。 もちろん現段階では(仮)の題名なんだが、(仮)でこしらえたらそのまま突っ走る可能性が高いから、恐怖である。
 ひょっとして、どこかのパクリになってるかもしれない……気付いた方があったら指摘してください。

 話の骨格を書き、そこへ関節を入れる……ここまでは、出来た。
 あとは、肉付け。
 いかに恰好よく(というより、人間らしく、と頑張ったほうがいいかもしれない)、それから目鼻の配置を試行錯誤する、という本番の段階が待っている。
 これに、どうだろうなあ……このままだと半年くらい費やされることになりそうである。

 こういう次第で、これから延々とこの「何とかと何とか」の長編作成中に生じる、くだくだ話、より正確には、歯クソみたいなものが、当あやまり堂に陳列されることになると思いますが、稀有な皆様にはお気楽に見物ください。

◇鴎外全集3、読了。
 毎日毎日、重かった……。
◇昼休憩中の、吉川先生「鳴門秘帖」の書き写しは、ひとまず打ち切り。
 かわりに、図書館の放送大学のテキストを眺め、教科書のみの独り講義を受けてみる。つまらなかったら鳴門秘帖に戻る。
 鳴門秘帖は、ちょうど、法月弦之丞が肚を固めた、という切りのよいところであった。
◇贅言を書いてみた。 6000アクセスで更新できそうだ。 しかし相変わらずの悪口である。
  



   ぶっちん   2005年02月16日    
  
 最初から書き直しだ!
 長編、今まで書いていた百枚ばかりをポイとして、最初から書き直す。
 行き詰まりは、不毛でありおもしろみの欠如である。
 人物達は、そのまま用いる。
 もっとも、すべてにマキシマム性向をつけて悪党は悪党! とするし、人物の背負っている過去、現在の立場、目的もより明確化させる。 さらには見せ場は見せ場! として際立たせるし、ここにこれが起きる、という必然性を、全体の中での必要性により確実に組み入れる等々、一からコツコツ行きたい。
 それで、作法も変えることが出来るなら、変更したい。
 今までは、詳細に、原稿用紙に書いてそのまま出版できる! というような書き方をしていたが、まずは、会話文だけもしくは骨格だけで書いてみたい……前にも挑んだが失敗した作法なのであるが……まあ、とりあえず、決意表明。
 明日以降、しばらく日記を書かないようならば、上の試みは成功しているということになるはず。
  

  
何ということもないのだが、の2   2005年02月15日    
  
 小説を書きまくりたくなってきた。
 質は問わない。
 やりたい放題にやけくそに、ただひたすら数だけを求めて。
 ……と、決意を書くひまがあるなら、書き始めろよと。
 昨日と同じ末文になっちまった。
 書くも愚かながら、社会人ばらたきがあまりに低劣なのである。

 ……
 望雲慚高鳥、臨水愧游魚。
 眞想初在襟、誰謂形跡拘。
 聊且憑化遷、終返班生廬。

 陶淵明。
  


  
何ということもないのだが   2005年02月14日    
  
 たまには、逃避旅+行きずりの恋という小説を書きたくもなる。
 こういう妄想、私だけと言わず、男の一般が好きなのかもしれない。
 現代小説がやたらと賢しらになって、こういう単純明快でまた自分勝手な妄想話を鼻で笑うようになってしまったようだが、こういう話の持つ好ましさってのは否定されるべきではない。
 むしろ私、さかしらでとにかく否定ぎみな奴の、そもそもの程度の低さを、大いに嫌っている。
 文学しかり、マスコミしかり。

 まあいいや、気が向いたら中編くらいで書いてみよう。
 圧倒的な自己都合、そして行きずりの恋が持つ甘美を作者一人で喜悦できるようなやつを。
 こういうやつを書く時間があるなら、長編ファンタジーをやれよとも思うんだが、書きたいものは書きたいわけだ。
  


 芥川賞「グランド・フィナーレ」感想文   2005年02月11日    
  
 ……ひどかった。
 今までに読んだ芥川賞作品の中で、最も程度が低かった。 いや、そもそもどうしてこれが候補に上ったのか(ほかが余りにひどい状況にあるってわけなのか)と首を傾げてしまったほどであった。
 選択した題材が、確かに、目を引くものであって、多少、それについてゴチャゴチャと言及されていたあたりから表現としては及第点が付けられたのかもしれない。 だが、それにしても、実際にはちっとも描けていないし(村上龍の選評にあった、描写から「逃げている」というより、才能として出来ないのだ、と思わせたし)、主人公の周辺環境が適当すぎる。 嘘っぽいを通り越して、人間としての存在感が、見えない。
 それにそもそも、文章が醜かった。
 書き出しからして、ゴチャゴチャしている……読みにくくても魅力ある文章もあるが、これには魅力は無い。 あるのは、劣った作者の気取った声。
 この、余りにひどく醜悪な文章ゆえ、途中で、「あ、もしかして、これは主人公、わたし、の醜悪な部分を描くために敢えて歪めたのか!?」と感心したほどであった。 だが、この期待は、後半に登場する二人の少女がちっとも描けていないことで打ち砕かれた。
 展開も、都合よすぎる……いや、これでは「テキトー過ぎる」と言うべきだ。
 終盤で、二人の少女が自殺に触れたあたりは、あ、そう来たか、と思わせて、「ああなるほど、これをうまくまとめ上げて、読者を感心させるのだな」と期待を持たせてくれた。
 だが、これも何も無く終わってしまった。
 高樹のぶ子選評のように、それゆえの「グランド・フィナーレ」という題名であったのなら、多少は、良い。 だが、それならば本文中に、一度は「グランド・フィナーレ」という、唐突な非日本語を溶け込ませなくてはおかしいだろう。 それをせずに、ポンと読者へ預けてしまうのだとしたら、本文に大した価値・魅力を感じさせない以上、迷惑である。

 ……と、愚痴ばかりになった。
 やれやれ。
  



 小説作法覚書   2005年02月10日    
  
 場面から場面へのの移行は、素早く。さらっと。
 しかし場面場面は、丁寧に、余裕を持つくらいで。

 これが難しくて、同じ場面を書き直しまくってしまった。
  


 
  掌編「マキシマム」について   2005年02月04日    
  
 三度の途中放棄と書き直しの末、掌編「マキシマム」が出来上がりそうである。
 もう出来ているが、明日もう一度、読み返してみる。
 第一回目に書き始めて、原稿用紙4枚くらいになった箇所が、完成版では、3行に縮んだ。
 放棄しても、一度書いた文章には、やはり気に入る一文くらいはあるので、それを棄てるのが惜しくて、何とか使おうとして、無理な蛇の足がついてしまう。
 これをしないために、悔しいッ! と思いながら、削りに削って「何を書きたかったか」にだけ意識を集中させて、書けた完成版。
 ……そうしたら、おいおい、これでいいのかよ、と自分で首を傾げるようなものになった。
 だが間違いなく、「何が書きたかったか」は書けている、というものである。 ゆえに、良いのだろう。

 今回は、社会人ばたらき開始以降に書いた、以前の短編3つの作後と較べると、かなり不思議な気分になっていて、成長、とわたくし自身は云うが、ともかく何か違うものが見えた……気がする。
 初稿の書き出しからすると、そこそこの時間が費やされたわけだが、完成版だけを考えると半日くらいで書けたから、お手軽な作品、ということも出来る。 けれど、何か、小説作法に一つの変化もしくは新たな手法をもたらしてくれたようである。

 ……と、下手な前宣伝をしてしまった。
 けれど、前宣伝をしても恥じないような気分の、作後贅言その一なのである。
 何にせよ、興味をお持ちになったら、明日以降、ご覧あれ。
 いや、あした自分で読み返してみて、「やっぱアカンて、これ」なんて言って、掲載できないかもしれないわな。
  



日展   2005年01月29日    
  
 本日は、日展へ出かけてきた。
 今年は、どうも、日本画に感心するものがひとつも無かった。
 そのかわり、洋画のいくつかにひかれた。
 彫刻は、いつものとおり、まったくどうでもよくて……と通過しようとしていたら、ちょうど作家による解説に出くわして、その話を聞かせていただけたのは幸い。
 ブロンズに見える展示作品でも実は樹脂に色を塗っただけだったり……ということは、去年知ったことだったから、別に驚きもしなかったが、見物人から、そういう作成方法についての質問ばかりを浴びていたのは、かわいそうにも感じられた。
 西洋彫刻の系譜で、裸の女がなにやら恰好をつけている、という市民会館なぞに放置してあるような代物。 要するに、一般人は好悪どころか関心すら向けていなような芸術分野が、日本において果たしてどのくらい価値があるだろうか。
 そういうわたくしの結論はさておき、「朝のひと時」「いのり」「広がるいのち」なんていうわけのわからないネット詩人の群れの中で、解説の当番作家の作品が「幽玄」と名づけられていたのに興味を覚えて、題意について、思わず、直接尋ねさせていただいた。
 そうしたら、たいへん気軽に、そして嬉しそうに(そりゃ、製作方法のほかに質問が無かったのだから)お答えをいただけて、しかもその作品の絵葉書までいただけた。
 結局のところの寓意は、まあ、それほど感心させられなかったけれど、ついでに体型や両手両足の恰好、全体のバランス、筋肉の集中と弛緩、そういった細かな工夫等、親切に教えてくださって、たいへん参考になった。
 小柄なこの先生は、齋藤隆雄というお名前であった。

 その後書・工芸を見て感心したり、首をひねったりした次第だが、日展の芸術作品の書を見たすぐあとで、駅前の道端にゴミのように陳列された「君の笑顔がぼくの幸せ」「生きることに前向きになろう」「いいじゃないか、自己満足で」などという落書きの群れを眺めることが出来て、驚いた。
 あまりに下手糞なのである。
 書の作品の中には、何じゃこれ……ミミズ? というような書体もあって、ちっとも読めやしないものや憎たらしいいようなものも並んでいる。
 にもかかわらず、あの路上の落書きどもと来た日には。
 ガクンと下あごが外れるほど、下手糞。 うわわわわッ! と叫びたくなったほどであった。
 せめて一度くらい、芸術作品としての書を見たらどうだろうか……おそらく、首くくりをしても足りないくらいの恥を覚えるであろう……いや、あやつらが見るわけがない。
「いいじゃないか、自己満足で」と。
 なんと小さな自己であることか。

 ところで、これで3年目の日展であるが、毎年、気に入った作品の絵葉書を買うことにしているのだが、また今年も、もっとも気に入った作品の絵葉書が無かった。確か、去年もであった。
 特選作品など、評価の高い作品の絵葉書は必ずあるのだが、一部、絵葉書になっていない作品があるのだという。また今年も……。
 写真はあったので、それを買ったけれど。



   贅言についての贅言と日記らしい日記   2005年01月28日    
  
 みなみやまページってやつはまったくの個人ページで、わたくしが好き勝手書き散らすことのできる、わたくしにしてみると居心地のいい便所みたいなところなのだが、この頃はわたくしのいた高校関連で、中高生の親たちまで訪れているようである。
 これが、何となく具合が悪い。
 贅言にあからさまに書いているとおり、わたくしの親世代、つまり「一つ前世代」への敵意もしくは蔑視をここでは隠していないし、それが一つのわたくしの立つ足元になっている。
 そういう文章を、ひょっとすると当の「一つ前世代」が読むかもしれない。
 何だ、ネット公開なんだからそもそも当り前じゃないか、といわれても、実際に、掲示板なんぞに「親ですが」なんてあるのだから、内弁慶を張っていた私としては、ドキドキしてしまう。
 ……いや、そうは言っても、馬鹿者どもがあれを読んできちんと理解できるなんて信じていない、本当のところは、あれらがどう考えようが知ったことではない、本音は、こういう次第なんだけれど。

 ところで、この頃、バスなどに揺られて居眠りをすると、まったく眠った気がしないうちに駅へ到着してしまうことが多い。
 窓へもたれて、
「ああ、何か、今日はなかなか眠れないかもしれないなあ」
 なんて思って落語を聞いている、その次の瞬間に駅、なのである。
 嘘みたいな、時空跳躍を体感することしばしば。
 わたくし、眠れるか眠れないか、というまどろみの快感を味わいたいので、ひと呼吸したら睡眠時間終りっていうのを、もったいない! と感じてしまうのである。
 居眠りが深いというわけで、いいことなのだろうけれど。



 書き直しで、登場人物を歪める   2005年01月24日    
  
二度目の書き直しを途中まで行って、やっぱり物足りないと思うから、
また書き直しを行う。
主人公ワイナリーを、もっと歪めてしまえ、というわけで、
一流の「布魔法使い」そして人生すべて投げやり男になりました。
そうすると、相棒としてのヒロインのアイスがもっと素敵になり、適度にぼやける脇役ナムルがいいダシになってくれる。
何を言っているのか、第一案も現況も知らない日記読者(はて、どれくらいいるのか)には、わたくしのウキウキ気分は、迷惑なことでござんしょうね。

その一方で今日「マキシマム」の初案を結末まで持ってゆこうとして、出来なかった。
どうせなら、小説一覧のぺーじを改良したいので、こりゃ、今月中は無理かな。
  



  で、小説・・・   2005年01月20日    
  
 今朝から、また書き出した。
 最初から、今度は手に入れた新しい万年筆を使って。
 万年筆、実ははじめて使ったわけだが、いいね、こいつは。
 スラスラ書ける。
 その分字がひどくなるが、手が追いつかなくてもどかしい、という思いがだいぶ少なくなる。

 一方、短編「マキシマム」も、割と快調に書けている。
  



 小説・・・   2005年01月19日    
  
 思い立って、しばらく書かないで、3月の引越し以降から書き継ごうなんて思っていた長編なんだが、やっぱりイライラしてきた。
 小説、書かないと死ぬ。

 というより、死んでいる。
 この死にップリが、耐えがたい。
  



 明日は   2005年01月17日    
  
 N先生のところでは、結局、存在については語れませんでした。
 世間話っぽくなりました。まあ、予想はしてたが。

 ところで今度の明日は、スキーってきます。
 高卒以来何年ぶり?
 日本のスキー場なんて、それこそ……十年ぶりくらい、もっとかしら。

 スキー用具一式を買おうとしたら、高いのなんのって。結局、レンタルさ。電車バスだし。

 明日の木曾方面、天気予報は「晴れ」。
 よかったよかった。
  



   明日は   2005年01月14日    
  
 大学時代の、哲学裏ゼミの先生に、久しぶりにお会いする。
 岡崎銘菓の詰め合せも買ってある。
 先生に会ったら、「存在」について聞いてみるつもりなのだが、それはこういう話である。

 量子力学方面の、まったく理解のできない理論と計算の結果、というか前提、というか、とにかく万物は「情報」であるということができる、らしい。
 私なりの解釈では、物質は、何らかの記号に置き換えることが出来る(指示名詞でも表面積の数値でも)、ゆえに情報。
 で、量子という物質の小さな小さなところまで行くと、万物は一刹那も安定していないことが明白となるようで、その変化を、量子単位という「情報」が変化する過程と見て、「計算」と呼ぶ。
 と、その計算式を、魔法のような数学で解き進むことで、どうやら物質の「最小単位」が決まる。
 つまり、何かを、例えばみかんを半分に切って半分に切って半分に切って……と延々と続けていった先の、終点が、一つ、指定されることになる。
 だが、これは、「計算可能な」最小単位である
 ……存在が可視もしくは可触対象という、事物的に客観的に有である、とした場合は、上のとおりであるが、当然、最小単位(これは「ひも」らしい)であろうが、有である以上、それを二つに切ることが可能であると考えられてしまう。
 >>>素人の生食いでノロウィルス感染しそうな話になってきた。
 この話、技術革新、量子コンピューターなんていう話につながってくるので、苦情を言ったってどうしようもなかろうが、どうも、いやだ。
 物理的な、要するにとうとう「情報」になってしまった存在と、心情としての存在つまり生き方が、どうも離れすぎてしまって、片方だけが猛烈な勢いで回転している。
 それと、私ばかりでない社会人ばたらきの浪費生。
 狂気! 狂気! 狂気!
  



 このごろ   2005年01月12日    
  
 本当、寒い。
 朝、石油ヒーターが、ブーーンと言う音で強制的に目覚めているのだが、それを異次元へ封印したくなるような、蒲団への執着が起きている。
 それでも、いやいや起きて、奮起して、小説をチョロチョロ書いて、社会人デスクで、半睡の事務書類を片付ける。

 本日、古井由吉「杳子」に驚いた。
 今はもうおじいさんの彼が、芥川賞を取った作品である。
 久しぶりに、文学だった。



   津波被害について   2005年01月08日    
  
 わたくし留学生相手の事務マンなので、昨年末の津波被害は、多少、身に近い。
 今回は、たっぷりの波が臨場感たっぷりに放映されたため、大金が集まっているらしくて、わたくしも当初こりゃ幾らか寄付せずんばなるまいなんて思っていたのだが、あちこちからものすごい大金が寄せられていると聞いてからはひねくれてしまった。
 それから、たとえばインドネシアの或る留学生の、故郷の家族がみんな死んだ、なんていうことを聞いてしまうと、千円か二千円の紙切れを箱に放り込もうという気持も、何だか金を恵めばそれで済んでしまうような気がして、それでもゼロ円よりは良かろうが……、とりあえず、ビタ銭も今のところ出していない。
 文化の差と言葉の差があるので、留学生がやや不思議な日本語で「××さんは、家族は、みんな死んだ。奥さん、子供、お父さん、お母さんは、死んだ」「僕の家族は大丈夫。でも、親戚の家族は、みんな死んだ」なんてことを聞いたりして、表情のとりようがなくて、ただ恐ろしくなってしまう。
 また、電話が鳴ったら「わたくし中京TV報道部の××と申しますが」なんてのが来たりして「今回の津波被害について、被害を受けた留学生から直接お話を聞きたいのですが」なんて仕事熱心なのが来る。

 昨年の台風被害や地震被害よりもずっと身近な話題となってしまって、あなおそろし、あなおそろし。
 ようやっと、ここに書けてほっとした。



小説のこと   2005年01月07日    
  
 放っておくと、書いている小説の話しかしない。
 例の如くとりとめもなく書き始めてしまったのだが、どうやら、カザンクラ王国再興ばなし、という筋におちついてきた。
 このカザンクラ王国という名前、カザンクラというのは、ブルガリアにある割と有名な都市の名前である……と、以前書いたかしら。
 ナツメグ+シフォンと違って、今度はたくさんの人物に活躍の場を与えようという方針でやっているから、やたらと量が増えそうである。苦しい愉悦。
 はて、小説作法で思いついたことをここに書き付けて忘れないようにしようと思うたのに、忘れてしまった。なんだったかなあ……。
  

  
   新年自負   2005年01月04日    
  
 「抱負」と「自負」が違うのはわかるが、字を見るとなんとなく同じである。
 まあいいや。
 今年の一字を考えたい。
 候補に「据」「掛」「殴」「破」「打」「放」などがあるが、どれも今ひとつ。
 昨年の「諦」も、なんだか今ひとつじゃった気がしないでもない。
 昨年4月からの人生運低迷期に、何をしても仕方ないとも思うが、一刻も早くこの浪費から脱却するのだ! という一文字が欲しい。
 余事放擲。一点を凝視して死に物狂い。
 ……こういう意気込みになって、昨日から風邪気味。
  

みなみやま入口