あ や ま り 堂 日 記

 

みなみやま】(16/06-12)(17/01-07) 

また小説作法のこと 2005/8/31

 昨日、6巻から12巻までをまとめて購入した「のだめカンタービレ」を、夕食もそこそこに、普段の就寝時間を越えて7冊を読みきった挙げ句に、カチカチ続きを始めた例の小説のこと。
 前々から、わたくしは「伏線を張る」ということが出来ずにいて、開き直りに、伏線が無くてもおもしろいものを、ということを考えていた。 この考えは、今も変わっていないのだが、「物語・人物をよりハッキリさせる」ためには、いわゆる「伏線を張る」に相当するような書き方をしなくてはならないのだと気づいた。
 つまり、後々の出来事をより強調するためには、前々から何かを感じ取らせていた方が良い、ということである。
 別の話のまったく関係ないと思われていた出来事が後半に密接に結びつく、というような展開は、言うまでもなく好ましいものだし、展開・人物がより鮮明にすることができる。
 あたりまえのことながら、強引な結びつけでは意味がない。 ゆえに、今のわたくしでは、最後の地点の見通しが立たないかぎり、「伏線」に相当するものがきれいに出来ないらしい。
「伏線」という言い方が嫌いなので、少し回りくどい言い方をしている。 伏線、というと、読者には伏せられた重要事項、というような意味に思われるので、どうも、いやらしいと感じるのだ。
 それではなく、少々前に目標として掲げていた「短編をつなげる」という作戦のもと、完結した一つの短編が、全体としては、そこでは完結していない、というような意味である(……昨日の寝不足で動かない頭のため、意味不明かもしれない)。
 言い方を変えてみると、それぞれが独立して、それぞれで完結している短編だが、それを最終的には一つの長編、という枠で囲ってしまう。 バラバラの筋のようで、それぞれが螺旋状に結び合って、一つになる、というような……やっぱり眠いのだ。
 とにかく、最終的に一つに結びつけろ場合に、結びついた先もしくは、結びついて出来上がったものそれ自体がより明瞭になるためには、個々の短編の意味を明確にする必要があった。 現在の、ナツメグ+シフォンは、一つの短編のつもりが長編になっちまってる、という状況であるものの、それぞれの章はそれぞれ章として独立している、と見れば、ひとつひとつの章の持つ、全体の中における意味、が明瞭でなければならない。
 今ひとつ、ピンと来ないことを言い続けているが、何にしても、最終的な目的像に達するためには、各章の出来事の一つ一つが意味深くなくてはならない。 すなわち、蛇足めいた、冗長なところをぶった切って、それでいて、各出来事の情報を充実させる必要があるわけである。 これを為せば、必然的に「伏線」めいた箇所が増えるであろうし、逆に、処理しきれない伏線、ただ不親切な思わせぶり、が消滅する。
 何より、冗漫な箇所を処理すること(単に切るだけではいけない)。 これが現在のわたくしの、もっとも困難な挑戦である。
 ええ、この頃の小説作法の発見は、毎度毎度、当り前のことばかりです。

 ぬああああ!
 吐き気が絶頂を越えそうなので、ごめんなさい、屍ばたらきのことを書いてしまう。
 現在、手元に、或る文章を英訳しる! というものがある。
 この文章は、屍上司の作文になるのだが、「山口君は、この言い回しを、どう思う」と来たもんだ! 笑而不答……これのほかに何が出来るのだ! 「ああ、これですか。 何かを喋ろうとしない方がいいですよ、馬鹿なんだから」危うく口から出そうになっちまって、とりあえず考えてみるふりをしてA4横書きを眺めていたのだが、ぬあああゴシゴシゴシゴシ! 目が汚れちまった。
 今日は、しかも、昼に「保険の勧誘」なる香水のくさいおばはんが到来しおって、要するに、「あんたは不幸になるから、金を出せ」なんていう不愉快なことを、ひどい言葉でほざき続けられて、腹の中の食事が腐乱してしまっていたのである。
 おばはんを退散させて、残り少なの休憩時間に、辛うじて、陶詩に心を洗って人間に戻れた気になったというのに、糞、糞、糞、糞!!
 そんなだから、陶淵明は無性に恋しいのだよ!

マニフェスト=政権政策について 2005/8/26

 基本的に、選挙といえば民主党の悪口、になるのだが、今朝の新聞に民主党のマニュヘソが載っていた。
 それの中身なんてどうだっていいのだが、マニヘソが「政権政策」と括弧書きにされていたのに吃驚した。
「あれれ、政権公約じゃなかったっけ??」
 基本的には、やっぱりどうだっていいのだが、しかし民主党は以前、「政権公約! マニフェスト! 政権公約! マニフェスト!」と叫び続けていたはずで、こんな悪趣味な流行語をつくった不愉快さから、わたくしのような雑魚ばかりでなく、日本語にうるさい阿川弘之おじいさんなどにも嫌われてしまったはずなのだ。
 それが、いきなり、マニフェスト=政権政策なんて、訳を変えやがった。
 わたくしが世間を知らないだけなのかもしれないが、それにしたって、馬鹿にしている。
 もはや絶対に投票してやらん、という気持は、「日本を、あきらめない」なんていう馬鹿な言葉によって確定していたのだが、ネット便所でさらに拡散してやろうという気になった。

 政権公約にせよ、政権政策にせよ、どちらも、馬から落ちて落馬した、みたいな馬鹿言葉であるが、「政権政策」の方がひどい。
 政策とは、
 (1)政府・政党などの、基本的な政治の方針。政治方策の大綱。政綱。
 (2)政府・政党・個人や団体・企業などが、その目標達成のための手段としてとる、特定の方法・進路。
 であると、ネットのExcite国語辞書に出ている。 で、政権というのは、これまたExcite辞書によると、
 (1)政府を構成し、国の統治機関を動かして実際に政治を行う権力
 (2)政府
 要するに、「政権政策」なる文句は、誤訳しようがなく単なる「政策」のことである。
 これを、「政権取ったら実施する政策」なんていう意味にしようとしたのなら、せいぜい、頭のいい小学生である。子供らしくなくて鼻につくくせに大人の知恵には遠く及ばない、というクソガキ。
 たった四字の熟語なのに二回も「政」が登場しているこの文句を、民主党のジャスコおぼっちゃんが、どういう頭の具合で翻訳変更へGOを出したのかがわからない。
 日本をあきらめない、以前に、わたくしは、あんたの頭をあきらめた、である。

 政治というのは、宗教と同様、何か知らんが各人各様の狂信ぶりを発揮するものであるので、わたくしの上記の苦情について、
「そんな揚げ足取りしか出来ないのか、馬鹿!」と反論があるかもしれない。
 けれど、こういう人は、どうせ、自分の政治信条に賛同しない人は全員馬鹿、というだろうから、放置。
 とはいえ、放つ言葉が腐ってる人間の言葉は信用できない。そして、選挙ってのは、放たれる言葉を裁断する機会なんじゃろう。
 なお、
「じゃあ、てめえの言葉は腐ってないってのか。じゅうぶん腐ってるぞ馬鹿。ふざけた自民オタは死ね!」
 という輩は論点のすり替えがあまりに下手糞で、よっぽど頭が悪いのだと思われるので、今後はあらゆる思想的なものを見聞きしない方がよろしい。一日中ハリウッド映画を見ていなさい。

どくだみ茶 2005/8/24

 昨日、たまたま聞いていたラジオで、聞いている人からの投稿で、「庭の片隅で頑固に根付いている雑草のどくだみ。我が家はこれをてんぷらにして味噌をつけて食べている」などという話があったので吃驚仰天。
 司会の二人が「食べて大丈夫なんですかねえ」「どくだみって薬草になるとかって聞いたことがありますよ」というような感想を漏らしたのにも吃驚仰天。
「ど、どくだみ茶は!?」という一人つっこみもむなしく、そもそもお茶にして飲むという考えは、あまり広まっていないのかしらん、と首を傾げた。
 わたくし、幼い頃から「夏といえば、どくだみ茶」で育った。
 「どくだみ茶葉」は、買うと高い。けれど茶葉をつくるのは、たいそう簡単なのである。このわたくしにだって作れる。
 というわけで、今日のあやまり堂日記は「どくだみ茶のつくり方」である。

 まず「どくだみ」を知らない、という人は、きっとどこかで見たことがあるに違いないけれど、このあたりを参考に。 町中でもあちこちで生えているが、近づくと独特のにおいを発しているから、間違うことはない。
 かなりたくましい草らしいので遠慮躊躇は無用。根っこごと、もしくは根本をぶった切るという収奪方法で、葉っぱだけではなく、茎ごと奪う。
 収奪したら、とにかく水洗い。
 青々して独特の臭いを放つどくだみを、水を張ったバケツにつっこんで、ザブザブやったら、最後にきれいな水で洗う程度。 基本的に、こんな臭い草には虫がつかないので、泥を落とす程度で充分である。
 水洗いしたら、茎を二、三本ずつ束ねて天日干し。 「人」の字のようなかたちにどくだみを縛って、紐にずらりと並べる。 これを日陰の風通しの良い場所に干したら、あとは、パリパリに乾燥するのを待つだけ。
 注意点は、干からびるとだいぶ縮むため、「人」字形のどくだみが、途中でボタボタ落ちる可能性があるということ。(わたくしが知らないだけで、きっと縛り方のコツがあるのだろう)
 で、乾燥したら、どくだみ茶。
 少量でしっかりと出るため、やかん一杯分で茎一本、で良い。 濃度は、各人の趣向に合わせるべし。
 やかん一杯に水を入れたら、火にかける前に茶葉を入れる。
 どくだみ茶は、水から、というのが大事。沸騰したら、しばらく弱火。ほど良いところで、できあがり。
 なにやら、水600ml、どくだみ15g を土瓶に入れて、とろ火でお湯が半分くらいになるまで煮出し続ける、とあったが、これはもう内服薬である(これはこれで日持ちするらしい)。こんなに煮出さなくて、麦茶のようにゴクゴク飲むためには、やかん一杯に茎一本、水が湧いたらとろ火少々、で大丈夫。

 というわけで、このように行えば、「雑草」どくだみが、立派なお茶になる。
 にきび対策、胃腸対策、冷え性対策、何だかよくわからないが、健康的な飲料らしい。わたくしは、冷やすと他のどのお茶よりうまいから、飲んでいるだけである。

 さて日記なので、久しぶりに小説のことを書く。
 下の理由で、作文が停滞しているのだが、今日から、再開できるに違いない。
 で、ナツメグ+シフォンを今月末までには仕上げて、「悪霊退散!」へ移る。 昨日、これの第二話が浮かんでしまったので、早くこちらに移りたいのである。
 しかし、この主人公の二人幽霊への愛着は、ナツメグ+シフォンには遠く及んでいない。おもしろい話が書けそうなのに、何か、悔しい。 同時に、愛着のかたまりになっているナツメグ+シフォンで、満足行く話がつくれないのが、どうにも悔しい。

オタク祭後記 2005/8/23

 無事、戻ってきたオタク祭ことWonder Festivalについて。
 当日、東京駅八重洲口から、急行バスでお台場ビッグサイトへ到着したのは、開場の1時間前、9時頃。
 降車したバスターミナルは地下部分にあって、どこが「ワンフェス」への入口なのかが分からなかったが、「それっぽい人」を尾行することで、行列を発見。この行列の、長いこと、長いこと。
 物好きな大学恩師のN先生の依頼もあって、デジカメでその行列を撮り始めたが、どこまで行っても行列。しかも、どうにも男むさい行列で、当日たまたま(なのか?)同じビッグサイトで開催されていた「東京ジャズ」なんていう小粋なイベントに来た家族連れが、「うわあ、何これえ」と口をぽかんと開けるくらいの行列。
 別にわたくし、急いで入場して会場限定品! を購入するつもりなど無かったので(そもそも何も購入しないつもりだった……本当だってば)、最長地点を確認しようじゃないか、とようやく見つけた最後尾が見る見るうちにグングン延びて行くのを、日陰の離れた場所から眺めていた。
 結局、開場の15分後、10時15分の時点で行列は一番長くなり、そこから入場するまでが45分だったことを確認。すでに開場しているわけであるので、人間の群れの中でウゾウゾと歩き続けること45分。わたくしも途中で列に加わったが、気が遠くなった。

 ところで、下のあやまり堂日記で、ガンダム・プラモデルが好きが嵩じてこういう方面へ、というようなことを書いたのだが、ワンフェスは、ガンダムのバンダイと仲が悪いらしく、ガンダムが無かった。そこら辺の、著作権を口実にした仲違いについてなど、おもしろい情報は、「海洋堂クロニクル」なんて本に書いてあるらしいから、一度読んでみたい。

 さて二次元→三次元という変化について。
 少なくとも「美少女フィギア」に関しては、二次元女好きがやがて三次元好きに変化して行ったと考えることが出来そうだ、と思った。
 たぶん10年以上前には不可能だった、アニメキャラクターの三次元化、ということが、おそらく海洋堂かどこかのすごい造形師(原型師っていうのか)が一つの成功パターンをつくり、以降、爆発的に美少女フィギアが流行するようになったのではないだろうか。 もちろん、キンケシ、ガンケシからの伝統があるだろうが、「人物を立体化する」「ヒロインを立体化する」とりわけ、髪の毛、衣服、そして顔の上手な再現は、ここ近年の顕著な技術進歩ではないだろうか。
 髪の毛や衣服を、リカちゃん人形のように繊維にすると、どうしても理想のかたち、色が再現出来なくなる。また、プラスチックの肌合いと乖離してしまう。逆にすべてプラスチックにすると、やわらかさが失せる……のを、服装のひだや髪の毛のふくらみ等の研究によって、とうとう完成させた。
 また顔、とりわけ目の描き方、頬のふくらませ方の再現もすばらしい進歩であろう。立体造形を容易にするCGの進歩と関係があるのかもしれない。 何にせよ、こういう進歩を実現させたあたりは、芸術家と呼ばれるべきだろう、情熱の方向性はともかくとして。

 同人漫画・同人フィギア等の存在位置について、各人の「所有感」がその根底にあるのではないか、ということは言えるようだ。あるいは「支配感」と言っても良い。
 彼らにとって、或るものが複数種あるとした場合は「コンプリート」が重要になる。一部が欠損していれば支配は達せられない。
 ……こういう話を、二次元少女について、とするとあまり肯定的ではないが、ポケモンに熱中する小学生がゲーム中にすべてのポケットモンスターをゲットしたがるのも同様であるから、逃亡してはいけない。もっとも同人世界の方は、それが露骨な欲望(性欲なしい恋愛)に直結しているので傍目に恐ろしいのだろうが。
 で、対象を支配する、というのは、人間関係の或る一つの形態である。
 わたくしがこのごろ確信しているのは、人間が他者と接する際には、「あいだ」「排除」「投げ込み」「支配」の四つがあるのではないか、ということであって、一対一として相手と自己との「あいだ」に関係を構築する形態と、ほとんど関係を結ばないために無視もしくは敬語で自分の内側へは入れないという「排除」、それから理想の対象などに自己を「投げ込む」させる方法、あと、完全に相手を自己としてしまう「支配」。
 最後の、相手を完全に自己としてしまう関係構築の方法では、当然ながら、一般的な人間関係は結べない。
 相手に対して「こうであれ」と一方的に押しつけるのであるし、そもそも「こうであれ」と命じるまでもなく「自己」の思うとおりに行動することが求められるのである。いわば、自分が自分の手足を動かすように、他者たる相手を規定しようとしているわけで、うまく行くはずがない。けれどこれは、自我を覚えた人格・自己が手足などの自分の肉体を対象化しつつ動かす方法であるので、赤ん坊から一貫して身につける関係構築の一形態であることは確かである(ゆえにガキんちょは大人の迷惑を考慮せず、欲望に忠実に泣き叫ぶ)。
  もちろん、上記一本で人生全般を済ませている人は少ないだろうが、欲望に関して支配・所有で対象との関係を構築するのが、同人世界であると言って良いと思う。

 さて現実の女性・男性よりもきれいであり、思うとおりに動く二次元を欲して、同人漫画をつくり、買うのだろうが、限界はある。人間は二次元ではないし、仮想の二次元に恋している自分自身は、現実の三次元人間である。動きまくるし声を発するし、上下左右前後から眺めて立体的である。
 それで、二次元漫画の次元から、声のある動画アニメ、あるいは、三次元フィギアへの移行が発生するのではないか。
 それぞれが求める「現実味」を求めて、エロゲーム方面、アニメ方面、フィギア方面、エロオビデオ方面などへ、分化して行く。
  ただ、より高度の造形を求めるにつれ、対象の持つ現実味と各人の「理想の現実味」との乖離が生じるため、或る程度で止まる。わかりやすく言えば、自分の理想の人物の担当声優が気にくわないから漫画、とか、エロビデオだと顔が理想的ではないからエロアニメ、とか、現実の人間だと手のひらにのってくれないからフィギア、など滞在する世界はそれぞれである。(ここで次元を下げて行くと絵のない小説になる。「かわいい女の子」という文章による女の子と、実際の絵・写真と、どちらが「かわいい」か、という話である)
 こうあるべき、を規定する支配感覚。
 対象を自己の欲する通りに規定すると言うことは、対象を自己に取り込むということと同じである。自分の腕は、自分の欲するとおりに行動する。 それと同様に、自分の欲望に忠実なエロ存在が規定される。

 さて、対象を自己に取り込む、という方法は、ひょっとして「コスプレ」にも通じるのではないか、と引き続いて考えようと思ったところで、もう稀少な日記読者さえ逃げ出しているだろうから、結論だけにする。
 対象を自己に取り込む、というコスプレと、対象に自己を投げ込む、という一般的なファッション。まったく対照的であるが、これゆえにコスプレにおいては似合う・似合わないは関知の対象にならないのではないか。コスプレにおいては「理想の対象がすでに自己になっている」のであるから、似合うも似合わないもない。逆に、理想の対象に自己を投げ込む通常のファッションについては、理想の対象に「自己」を投げ入れるので、対象の中に達した自分、という像を確かめることが出来る。
 もちろん、コスプレでも「没入」的な着こなしをしている人も多いだろうし、一般的な町中でも、ボンレスハムみたいな豚女がフリフリの服装している「支配」型ファッションを取っている場合もあるだろう。けれど少なくとも、男がエロゲームのヒロインの恰好をしている、という女装コスプレ(しかもだいぶひどいオッサンだった)は、「支配型」と言うほかない。ある種の一体化がそこでは成立しているのである。
 
 さらに以下覚え書き。
・フィギアは、どんなに技術革新が起きようが、現状の大きさがせいぜいで、決して、等身大フィギア! には至らないはずである。そんなに大きくては支配できない恐れがある。
・男性向けの美少女フィギアが隆盛であった。近いうちに女性向けの、美青年フィギアが登場するに違いない。支配意欲が強いのは男性のようだが、欲望を露骨にした女子も支配意欲は強いはずである。女子向けの美青年×美青年というエロ同人誌が繁盛しているからには、人形も発展するであろう。ただし、幼い頃からの人形遊びの様態が、女子は母性的であるのに対し男子は戦闘的であることは、留意する必要がある。
・フィギア人形、コスプレイヤーの写真を撮りまくっているのも、支配の達成の一形態であろう。
・エロ同人世界に限らず、日本の場合、文化的に、低次元から高次元へ、という発達を取っているような気がする。それに対して欧米文化では、高次元から低次元へ、という経過を辿っているらしい。つまり、日本のカラー・アニメが、「想像次元からの発展・生成」であるのに対し、欧米では「現実の模倣」ないし「「現実の翻案」を為しているのではないか。前者がより高次を志向するのに対し、後者は低次を指向する……別に目指しはしないが、物理的限界のため描こうという目標像は劣化する。逆にもともと想像という最低次元に目標像を有する場合には、物理的限界は、実は限界ではなく、そこまでの「拡張」をもたらす指標になる。

 ところで、会場では、ワンフェス限定オフィシャルドリンク(300ml烏龍茶2本入りの箱に、美少女フィギアのボトルキャップつき)が、2種コンプリートで1000円(1箱500円)で売られていた。
 そして、これが翌日の秋葉原のレンタル・ショウ・ケースにおいて、烏龍茶なしで、3980円(最高値)で並んでいた。最安値は2500円。これが、少なくとも同一店内6ヶ所で確認できた。
 ちなみに、美少女は水着姿で、名前を、ワンダちゃんと、リセットちゃん、と言う。

明日から東京 2005/8/19

 明日から東京である。
 ワンフェスというオタク祭典へ行くためであって、本当のところは、先週のコミケの方が行ってみたいところだったけれど友人スズハラにへばりつくためにこちらになった。
 とはいえ考えてみれば、フィギアオタクの祭りと同人誌オタクの祭りと、どちらへ自主的に行くか、と言えば、小説を書いているだけに同人誌の方へ興味が深く、行きそうになかったフィギア方面を見学できるというのも、また、良いことである。
 フィギア好きというのは、どうだろう、わたくしにはあまり要素が無いと思われるのだが、推測するなら、ガンダムやら戦闘機やら戦艦やらのプラモデル好きが嵩じて、スゴイヤツ、をつくるようになる連中と、二次元の女の子好きが嵩じて、スゴイヤツ、をつくるようになる連中と、二つあるのではないだろうか。
 もちろん両者が共存している人もあるだろうし、つくろうと思わないで所有したいだけ、という人もいるだろうけれど、そういう人も、きっと、始まりは真っ当なプラモデル愛好家であったり、真っ当な二次元少女愛好家(あれれ?)であったりしたのだろう。
 ま、あまり知らない世界なだけに、ヘンテコな先入観を形成させておくのはやめよう。とりあえず、すごい世界なのは間違いないだろうし、時々、名古屋の大須やらで見る、その道のスゴイ人のつくるプラモデルやお人形たちにびっくりする以上に、びっくりすることが出来るであろう。
 わたくしは基本的に文字群という、きわめてファンタジーな妄想が大好きな人種なのだが、二次元の漫画・CGを愛好するというのと、三次元のフィギアを愛好するというのとの違いを見てみたい。愛好者、という次元では共通なのだろうが、どこを境に二次元から三次元へ移行するのか、もしくは当初から三次元のみであるのか、あるいは両者は共通なのか。 コスプレという或る種の「立体化」と関わりはあるのか、などなど、きわめて興味深い。
 なんて、こんなことは、行ったところで正確な解析が出来るわけがないけれど、肌で実感したことというのは、強い、わけであるから、何か発見があるに違いない。と、表向きはそんなことを理由に行くのである。
 で、もしかしたら、来週以降の日記が、危なくパワーアップしているかもしれない。
 いきなり、「バーチャルネットアイドル」なんて冠をかぶりはじめているかもしれない。

新恋愛模様 2005/8/18

 書ききれるかわからないけれど、ネット公開を目指して「恋愛模様」を書いている。 先日ある人から聞いた話を何とか小説にしてみようとがんばっているのであるが、なかなか難しい。
 もう少し細かく話を聞いておけば良かった。
 主人公睦美に恋人の信隆、脇役男の石田さん、脇女の依子、という登場人物となっているんやが、この名前に問題があったら、連絡ください。大丈夫よね。てか、このページを見てないね。

 世間(すなわちマスコミという世の中)では選挙競馬が盛り上がっているようで、悪代官そろいぶみ、というようなひどい顔の政治屋が「国民新党」なんて、びっくりするような名前の新党を立ち上げたが、あれ、どうせなら「郵便局を守る党」にすれば良かったのに。
 そうすれば、郵政問題が解決すれば堂々と自民党に戻れるじゃない。 どうせ戻りたいくせに、下手に「国民!」なんてのを冠に持ってきて、あたかも「自民党には国民がいない、あいつらはバカだ!」というような啖呵を切ってしまって、どうするんだろ、悪代官たちは。
 そうそう、この前の週末だったか、各政党が、ひどいセンスの選挙文句を発表していたっけ。

 自民党……改革を止めるな
 民主党……日本を、あきらめない
 公明党……改革力
 共産党……たしかな野党が必要です
 社民党……国民を見ずして、改革なし

 ああ、頭が悪いんだ、とわたくしでなくても思うに違いないのが勢揃い。
「改革なくして成長なし」だったか、あろうことか首相の得意台詞のパロディかよ、とか、政権獲得じゃなくて野党を目指すのかよ、とか、もはや蚊トンボ程度になっている連中はともかくとして、民主党の「日本を、あきらめない」って何?
 これにはさすがのマスコミも唖然としながら批判しているのを聞いたので、「日本を、あきらめない」のまん中の句点(、)が、智恵足らずの同人作家が放つ気合に見えてくる、と小馬鹿にする程度で放置。
 この中じゃ「改革を止めるな」という自民党が、どういうわけか一番まともな文句になっているという、あらあらまあまあ。
 そうこうしてるうちに、学会党が大きくなるばかり。「改革力」という、わけのわからない文句も、「日本を、あきらめない」より、短いだけに軽薄さが弱く、学会員の離反を招くほどではない。

 ところでこの公明党は、確か前回の大きな選挙のときに「マニュフェスト達成率No.1」というポスターを貼りまくっていた。
 浮薄俗物な民主党がその前のときに、気が狂ったような大はしゃぎで「マニフェスト! マニフェスト!」と叫んで流行させた言葉を、律儀にも次の選挙まで大いに使っていたのは公明党だけであり、これが、流行に鈍く、一度感染したら今度はそこからなかなか抜け出せない、という中高年層にガッチリ好感触を与えたんじゃないかと思われてならない。
 公明党に投票するのは創価学会員だけだ、と言われるが、学会員にも濃密があるわけで、自宅に公明党のポスターを貼るような濃密なところから、友人が入信しているからちょっとだけ好意を持っている、というようなところまであるはずなので、そういう弱いところまでが、
「あらあらそうそう、マニュフェスト、マニュフェスト。ははあ、公明党はきちんと達成したのね。立派じゃない」
 と投票、入信に至ることも考えられる。
 基本的に、日本の政治なんてのは 「行き当たりばったり」 という伝統があるので、どこが頑張ろうが死滅しようがどうだっていいのだが、状況を見ずにやたら張り切る水野忠邦だとか大本営末期みたいな政権は困る。 けれどそういうものの登場は、結局のところ「必然」としか言いようがないので、放置、放置。
 民主主義の根幹たる選挙だぞ! と叫ぶ人は、行けばいい。
 といって私が投票に行かないかといえば、たぶん行く。キャッチコピーがまともだという理由で、自民党ね。 ほかにも、顔がいいからこの人、とか。 判断基準は、所詮、その程度で充分なはずである。

 と書いていたら、北海道の犯罪者鈴木宗男が「新党大地」をつくると来た。 名前が、「出来ちゃった婚」の息子っぽい(要するに馬鹿っぽい)。
 そうそう、大阪の犯罪者辻本清美(だっけ?)も選挙競馬に出走するとか。こっちの女は顔と声が気持ち悪い。

お盆休み 2005/8/17

 文化的行事というやつを、「文化的行事」と認識するようになったらもうおしまいで、こうなってしまえばお盆の墓参もお精霊さんも何となく空虚に見えてしまう。まして今や坊主の俗化の甚だしいこと末法の世を超えるので余計である。
 文化的営みというやつに関して言えば、万事が手遅れである。 得意になってこれを破壊したわたくしの一つ前世代ではもはや復興することはできないし、それの教育成果たる我々もまた一度対象化されたものをもとどおり主体に戻すことなど出来るわけがない。
 ちょうど産経新聞が載せていた、三島由紀夫の文章の、空っぽな経済大国、という表現はあららすでに現実になっていて、復興しようとしてものを書こうが割腹自殺してみようが、結局のところ対抗しようがない。
 下の、ファンタジーを捨てて欲望を剥き出しにする快楽を覚えたのは、何もオタク連中ばかりでなく、ウォークマンの発明やら新幹線の発達やらデジタルカメラやら、そういったものを求めて得る現代人全部であって、ファンタジーの喪失を大歓迎する一方で、ファンタジーのかたまりである文化的行事に回帰すると考えることは難しい。
 とはいえ、他者との間の生、という哲学の観点からすれば死者との音信を持つのは良いことであるし、死者と非死者との差異は僅少。 そこら辺のことを考えながら、今年のお盆を越した。

 こういう次第で、お盆休みの最中、一文字もナツメグ+シフォンがを続けられなかった。 気がつけばぼちぼちと昨年応募し、二次落ちした大賞への締め切りが近づいていて、やややや、一年一作になっちまってるじゃねえかと愕然としている。
 わたくし臆病なので、一度書いたらそれっきりで、ほらよ、さっさと送付! ということがとても出来ない。
 それで読み返せばやっぱりおかしいので、また書き直し、書き直し、書き直し、やっているうちにさらに自信を喪失してしまう。 そんな感じて右往左往しまくっている感がある。
 青小僧め、それで当り前だわ甘えんな、と自問自答と自慰問答はいかにも寂しいのだが、仕方ない。

 昨日、ドラえもん映画「のび太のパラレル西遊記」を見た。 昔一度見ただけ、というようなものだったので、あんな展開だったかなあと首を傾げることもしばしばだったが、昔のドラえもんの持つ魅力たっぷりで楽しめた。 ドラえもん映画はすべて見たいところだ。
 ところで途中でドラミちゃんを出すという展開。 きっと、作者があそこでもうどうしようもなくなったんだろうが、あれはちょっとなあ……魔界大冒険とか。
 それから今日、盛んに鳴いているツクツク法師蝉を確認した。

 あっち方面の祭り 2005/8/12

 Wikipedia で検索したら、例のちゆ12歳 というのは、バーチャルネットアイドルという形式を確立した第一人者らしくて、なるほどそりゃおもしろいわけだと感心した、と同時に、ウロンのひとりごと とほか2つとともに、バーチャルネットアイドル四天王、なんて呼ばれているとあって、これにも驚いた。
 何にしても、わたくしがおもしろいと感じた2つが2つとも著名なところだったので、ネット世界において自分の見る目が狂っていなかったと、ほっとした。それから四天王として新たに2つの評判のページが示されたので、まことにありがたい。さっそく今日からオコメを読み始めた(上2つにはちと劣るし昨年末から更新がないが、けっこう楽しめる)。

 それにしてもめちゃくちゃ暑い。今日は曇っているが、その分蒸し暑いし、四国では例のごとく水不足になっているらしいが、こちら愛知県豊橋市でもいいかげん、雨が降って欲しい。
 で、このクソ暑い中、東京では今日から3日間、世界最強のコミケが開催されている。どうしても一度見ておきたいのだが、暑いし、お盆だし、とりあえず見送らざるをえなかった。12月には、是非、行ってみせる。
 おたく文化なんて、結局のところ人間の下等な欲望そのままなので、別にそんなに価値はないのだ……そんなことを村上隆が言っていたような、いなかったような気がするけれど、まだ一度も見たことがないので、写真等で見るあの気持ち悪い熱気は体験してみたい。一度踏み込んだら帰って来られない、という恐れもあるが、まあ、いいや、その時はその時でシアワセになっているに違いないから(オイオイ)。

 ところで、あっちの世界について考えるなら、とりあえず、各人の欲望や好みが剥き出しになっている異空間、という認識は正しいだろう。 内面が剥き出しになるゆえ、一人の殻に引きこもるかあっち仲間で内向きに団結する。基本的に剥き出しの内面は他人に見られると恥ずかしい……だろうが、コスプレみたいに、自分を理想像に外見をまず同化させ、堂々と見せびらかしている人もいる……とはいえ、ものすごいコスプレの人でも渋谷だとか銀座を単独行動できないだろうから、やはり内面を"赤の他人"に見られるのは恥ずかしいといえる気がする。
 まあいいや。
 いずれにせよ、ひとたび欲望を剥き出しにしてしまったら、そこにファンタジー(わび・さび・余白・幽玄・秘すれば花などなど)の介在できる余地というのは、次第に減って行かざるを得ない。 同人世界というのは、だいたいは、自分の欲望に関して「こんなのがあったらいいなあ」というのを手っ取り早く実現する世界であるので、人々はここに於て、頭の中で妄想をふくらませる、という次元から一気に、現物をつきつける、という次元へ移行できる。 理想の女性像が、当初二次元アニメ・漫画ばかりであったが、最近では二次元アニメ、漫画をもとにしたフィギュアが隆盛になっている気がするが、そういうわけかもしれない(こじつけかも)。
 こういう次第で、欲望はコレ、という現物を獲得できる場所であるから、各人の趣向に従って、世界は多種多様に分化・深化するだろう。 従来は、たとえば、スカートの向うのパンチラは黒か白か、を決定するのは各人の脳内に一任されていたわけだが、同人世界の発達が、黒! 白! 紫! なし! 何だっていいんだけけれど、それぞれすべてを現物として提供することになった。 もちろんパンチラ分化程度じゃあっちの世界が発達するわけがなく、もうウンコだろうが撲殺だろうが同性だろうが、すべてがすべて現実化して行って、今日のありさまとなったんじゃないだろうか。
 そうなると、エロ・グロの過激を求める連中はますます過激を求めてついには地下世界に至るだろうし、炉辺はますます低年齢を求めるようになって、こちらも地下世界。 むしろ二つが重なると、もう、危ない、逃げろ!
 ……何の話をしていたのか忘れてしまった。
 ともかく、だいぶ認知されてきたあっちの世界であるが、日の光の下で開催する場合には、そういう分化・深化した地下世界の地獄絵図ではなく、なるべく激しすぎないものが陳列されることになる。 同時に、あっちの世界がだいぶ認知された結果、剥き出しの欲望の快楽は低年齢層やあっち属性の低い人にまで浸透しているはずなので、激しすぎない陳列はますます加速する(しかし今日から三日間のやつみたいに規模があまりにもでかい場合は充分なな住み分けができるから、初心者から過激地下世界までが見学できるに違いない。ゆえに見たいのである)。

 こんな適当な解釈が成立するってなら、お祭りは、年々拡大すると同時に質的低下して行くだろう。上級者は自らの欲望の淵にますます沈んでやがて一般向けのお祭りに参加できなくなる一方で、次々に初心者が加わって行く。 
 ……とはいえ、人の欲望が深化・分化するにしたってほどがあるし、参加者の低年齢化が進んだって赤ん坊が同人絵を描くわけがないので参加者も或る程度で安定するだろう。 そして何よりメーカー商売の進出が加速するはずだから、お祭りは次第に安定化して行く……むしろそろそろ安定期に入っているに違いない。
 そんなことを考えながら、来週末のワンフェスというやつへは、友人スズハラと出かけてくるのである。

芥川賞「土の中の子供」感想文ほか 2005/8/11

「はやてのごとく」3巻と、あさりよしとお「まんがサイエンス9」と一緒に買った今月の文藝春秋で、さっそく、今回の芥川賞「土の中の子供」を読んだ。
 その前に、今日の昼休みで、放送大学教材「哲学入門」の独習が完了した。第一章から第十五章まで、ちまちまと、大学で授業ノートを取るような感じで、もっとも「哲学入門」の講義は放送大学教科書を読むだけなので様々いろいろ面倒だっただが、それをようやく、いつくらいから始めたのか忘れたが、完了することが出来た。
 屍ばたらきの昼休みは、どこも同じだろうけれど1時間で、そのうち20分程度を食事に、5分程度を図書館への移動というふうに使うので、30分ちょいしか時間が無いなかで、よくぞ「哲学入門」ノートが完成したものだ。
 自慢げなので、読書感想文の前に延々と「実存」論への疑問を提示して「空」への必然を運びたいところだが、まあその結論はわたくしの中では明瞭であり、今回を通じて少しも揺らがなかったので改めて考察することもない、いやそもそもそんなことを贅言に書いたって誰が読むんだえ、というわけなので、まあ、この辺で切り上げよう。
 いずれにせよ、「本質」論をあきらめて「実存」論を打ったとしても、結局のところ、存在の存在を確信するためには超越者の声ないし到来が必要になるのであり、もういっそスッパリ「空」にしろよ、なあ、切支丹。 そういう感想なのである。

 で、芥川賞「土の中の子供」である。
 この作者の以前の作品を、古井由吉翁が執拗に褒めていたので(しかしその古井翁、今回褒めていた人がようやく受賞するという直前に、選考委員を退任された)、前回の芥川賞のひどすぎた反動もあって、早く読みたかった。
 内容は、というと、虐待された過去を持つ主人公が、時々に湧く自殺衝動に立ち向かう、というようなもの。
 ここ数年のうちではだいぶ読みにくい文章だったが、ものを落下させるくだりなど、たいしたものだと感じた。
 人物やストーリイ展開に弱点があって、だから池沢夏樹さんの言った「小説には他人が必要」というところからすると、これは小説としてはダメ、ということになる。小説は自問自答じゃいけねえ、という選評には、ああなるほどそうか、そうだよ、と感心して、自作の模索の一助にする。
 とはいえ、この主人公の自問自答(というよりは、自問自答の中の煩悶)は読みごたえがあって、以前「銃」という作品のときに古井翁が褒めていたところは、なるほど、こういう箇所か、と思わせるくだりが、時々あった。 わたくしは、ビルの上から缶コーヒーを落とすところが(多少、うそくさかったけれど)良いと感じた。
 どういうきっかけで立ち直るか、という肝心なところが自問自答の挙げ句、というのはひどいし、女との関係、転機の置き方なんかは何だか陳腐な小説作法の例文を思わせるので、山田詠美なんかがくさすのはよく分かる。 けれど文学表現の有無、可否、意欲、からすれば、久しぶりに「受賞作」にふさわしかったと思った。村上ドラゴンが、この程度の児童虐待作品を受賞作にすると、ただのワイドショーになる、と選評でブツブツ言ってたが、芥川賞のワイドショーなんて、もう手遅れだってば。
 まあ、そういう次第で、民主党のホームページからドエロサイトへのリンクが張られていたという2ch通信に驚いた、本日の日記。

 昨晩のカチカチレンジャー 2005/8/10

 そうだ、辞書登録すればいいんだ。
 <tr><td bgColor="#d6d6eb"><p align="center"> </p></td></tr><tr><td> </td></td>
 ネ。

 さて昨日のカチカチレンジャーの活躍をどうやって説明したらいいものか、とりあえず8時45分まではNHKの生き物番組を見ていて、アマゾンが水没するなんてことは今まで知らなかったので、ああ小説書きたいなあなんて思いながら、干上がりつつある沼にたくさんの魚が酸欠死するのが珍しくて、いやもちろんそればかりではなく全部興味深かったので、全部見てしまった。
 昨日の日記でうだうだの状況を述べたナツメグ+シフォンの改造方法をお風呂場で模索していたらめでたい啓示が来て、そうか、そんな基礎がわかっておらんかったのか! と自分でびっくり仰天するような発見は、要するに、
「ストーリーは、わかりやすく」
 うへえ、何だそんなこと、と自分でもあきれてるのだから、稀少なあやまり堂見物者なんてあきれかえって一回転しそうなものであろうが、これを実感するというのは、はなはだ難しいことなのであった!
 ちょっと以前に気づいた、というか改良の方針としたのは、
「キャラクターをはっきりさせる!」
 であったわけだが、その時には、ストーリイを改める方法などこれっぽっちも浮かばなかった。
 人物造形を明瞭にすると同時に、物語の展開、主軸、方向性、そういったところもキッチリ明瞭にする必要があったのである。 
 繰り返すが、うへえ、何だそんなこと……である。 
 というわけで、明瞭にする、際だたせる、ということは、娯楽小説にとっての肝であるところの、人物、ストーリイの両方に為さなくてはならない。
 ほかにもひょっとすると、うへえ、何だそんなこと、という未発見の成長の種が転がっているかもしれないが、とりあえずは、この発見で全力疾走する。
 そんなこんなで、うへえ、何だこんなことかよ……とか云いながら作文がめちゃくちゃ楽しくなって、カチカチレンジャーに大車輪の活躍の場が与えられたわけである。
 キーボード戦隊は、本当にカチカチカチカチカチカチとうるさいので、夜更かしの出来ない性質の私の脳を絶えず刺激してくれて、ただでさえ改善の発見で興奮している頭をギンギンに覚醒、気づけば12時半、という私にしてみると恐ろしいばかりの深夜までの作文を成功させたのであった。
 といっても、あれれ、3時間半程度か……けれど中断がほとんど無かったというのは熱しやすく飽きっぽい私にしてみれば大したもの。 第一章だというのに余談扱いを喰っていた話を、きっちり本編に組み込めたのは、一気にやらなくては出来なかったろうから、満足満足。
 わたくし、小説を書かなければ死ぬ、という人間であるので、こうして、昨日の日記のうだうだを打ち破って興奮できているというのは、まことにうれしいことである。  もちろん、今夜の作文にしくじれば、明日の日記はうだうだの返り咲きとなる。 

模様替え   2005/8/9

 ノートパソコンの徹底改造を為そうとして、ぎゃあす、間違ってねじ穴を潰してしまったからどうしようもなくて、仕方なくもとに戻したつもりが、標準装備のタッチパネル・マウスのボタンが効かなくなってしまい、ああいやだいやだリセットさせてくれなんて云いながら、あやまり堂の模様替え。
 以前から、自分の書いた文章は自分で保存しておきたい、と考えていたところへ、このごろ、ちゆ12歳とか、ウロンのひとりごとなんていうところを隅々まで読破した結果、例の、すぐに何かの影響を受けるというわたくしの性質により、あやまり堂をそんなふうにしてみたくなったのである。
 ところで、この頃あれこれリンクをたどってさまざまな日記・ブログページを巡っているのだが、上の二つが抜群におもしろく、ほかは今ひとつ。 何かおもしろいところがあれば、是非とも教えて欲しいわさ。

 政局混乱で株価が下がる、という触れ込みだったのに、潔い解散決断が好感だとか、悪材料が出尽くした、なんていう説明でいきなり全面高の展開を喰って、ああしまった、買っておけば良かったんだと、悔しがっているこのトーシローだが、どうせ有り金では一つか二つの最低購入単位しか買えないので、様子を見ていればいい。 新聞の市場分析・市場の声がいかに当てにならないかをようやく学んだ。 いいかげんなのは政治面だけではないらしい……気づくの遅すぎ……損をしていないから、別にいいや。 それにしても、細木予言からライブドアが30%も上がっているのは気味が悪い。 上がる直前に売ってしまったので多少悔しいが。

 で、そろそろナツメグ+シフォンのことを書くと、新パソコン購入後、あれこれ設定作業に時間を使いすぎていて、昨日、ようやく、多少書けた。
 これからクライマックス、というところまでは修正が完成したのだが、どうも「インパクト」に欠けるのではないかなあと不安になった……おもしろいことは、おもしろい。 だが、爆発するような要素が無いから賞には届かないなあ……と早くも弱気になってどうするのだと自分に喝を入れつつ、また今夜もカチカチレンジャーと共同戦線。
 こうして愛着のかたまりの作品にしてしまったのは、果たしていいのか悪いのか。 人物ふたりに、やたらと愛着があるために、思い切った改善・一新の作業ができない……ということはないのだろうか。 そして何より、脇役に個性が欠けてしまうのではないか……。
 何はともあれ最善を尽くし、どこかへ送る。
 どこかへ送るのだ。 賞を目指すのだ! と気負わなければ成長しない気がしている次第。

 ところで、相変わらず移り気なのか、昨日、銭形平次がおもしろかったので、早く「悪霊退散!」の長編に移りたくもある……とは云うものの、過去一年分のあやまり堂日記を読み返すと、思いついただけで放棄されたことがらの多いこと、多いこと……。

 銭形平次が素敵だ   2005/8/8

 村上弘明がいい。
 あと、ありときりぎりす、の二人の、適度な大根ぶりが好ましい。

 小説を書こうと思ったら、データがノートパソコンのほうにあって、そうだ、データを引越しさせなくては、と思ってコピーを開始したら、容量が大きいために時間がかかり、このためにすることがなくなってしまった今夜の私なのである。

キーボード   2005/8/7 

  新調したパソコン標準装備のキーボードが使いにくかったから、別のものを購入。
 カチカチレンジャーといううさんくさい名前のやつだが、今こうして入力しているのが実に心地よい。
 カチカチカチカチと、やたらと物凄くうるさいのが玉に瑕だが、まあそれはいずれ慣れよう。
 さあ、こうして入力環境が整った。
 本当は、手書きで行きたいところだが、今時点では、手書きしたものをそのまま送付できるような筆力にないので、カチカチレンジャーの力を借りて、まずはナツメグ+シフォンを書き上げる。
 書くぞ!
 という気になってきたのは、大金をはたいた甲斐というものである。

 ……にしても、カチカチカチカチ……のうるささには、慣れるに時間がかかるかもしれない。

パソコン新調   2005/8/1

  パソコンが、白いレガリアちゃんになりました。
 古い大学のノートPCは、これから大規模手術をかけて新たに育ててゆきたいと思います。

 とりあえず・・・このキーボートが使いにくい。


みなみやま入口