あ や ま り 堂 日 記

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 2chブログ、各所で閉鎖 2006/05/31

 今日ようやく知ったのだけれど、わたくしの昼休みの楽しみだった、2ch記事を抽出しておもしろおかしく紹介してくれる様々なサイトが閉鎖もしくは休止になっているのは、要するに「俺たちの書き込んだ2ch記事で金儲けするんじゃねえ」という反発が起きたため、らしい。
 この辺りの事情は、この辺りの事情をきれいに紹介してくれそうなページが当事者として閉鎖もしくは休止になっているので真相は藪の中、といったところなんだけれど、まあ、だいたいはそういう背景のところへ、各所のページ管理人が乱暴な発言を行い、火に油を注いでしまって閉鎖を余儀なくされたのだろう、とわたくしは理解した。
 現在は、きわめて「日本人的に」2chVIPの新しいところへ新たに「個人ニュースサイト・ブログ・雑誌でのスレの紹介はご遠慮ください」という文句を入れて、各所ブログを閉鎖に追い込んで、まあ、どうにか沈静化してきたようである。
 この辺りの顛末は、主として「http://s03.2log.net/home/limit/archives/blog349.html」から知った。
 で、この顛末。わたくしの昼食時の楽しみを奪ったとことのほかに不快が三点ある。
 一つ。
「俺たちの書き込みで金儲けしやがって!」という反発に、「日本人らしい」とも言える、小人らしいせせこましさを感ずる点。「“俺たち”の書き込み」という言い方。 実際に文言で反発しているんだかはとにかく、対象及び自己をひとまとめにして、自己を大きなものの一部と見るのではなく、自己を、自己と周辺をひとまとめにした巨大なものそのものと見て立場を強化し、あとは「強者は正義」の感情論で相手を押しつぶす、PTAとか日教組とかマスコミの言い方と同じものがそこに見られて胸くそが悪い。
 一つ。
「転載禁止」というような一文を入れて、自分たちのコミュニティを外部から孤立させる、これまたせせこましい、ムラ根性(別に、その注意書きがあっても誰だって気軽に入れるぞ、という反論も予想できるが、過去の閉鎖的農村だって別に自由に立ち入れたわけである。2chブログ反発への言いがかりとして「空気を読まない新参ウゼエ」なんて文句がある)。
 一つ。
 他人の儲け話への露骨な反感。言うまでもなく、浅ましい。ライブドアだとか村上ファンドへのマスコミ姿勢と同じである。自分が出来ない手段で儲ける奴がねたましいのである。しかも、これをねたましい、とか、うらやましい、と言わずに「ウゼエ」と言ってしまうことで、感情の整理を単なる「反感」「嫌悪」だけにしている点である(マスコミの場合は、この種の反感を適当な理屈で正当化する。これも不快)。正直に、うらやましいと言って、始められるなら自分でも行えばいい。 一方で「俺が身体を張ったギャグをコピー&ペイストするだけで金に換える奴は許せん!」という人は、2chに投稿なんてせずに、お笑い芸人になればいい(だがこういう人は少ないんじゃないか? 何せ、2chVIPへの投稿は、「個人を特定しない無報酬な投稿」という既定があらかじめあり、ただ読者のウケを狙うためにギャグをかますのだから、他のブログで紹介されるのはむしろ望む所ではないか)。「“彼が”身体を張ったギャグをコピー&ペイストするだけで金に換える奴は許せん!」という人は、そもそも発言権は無いのだがそれに気づいているのか。
 まあ、様々な書き込みを繰り返す中で笑いを発展させて行く、という新しい形態があって、それを称して「俺たちの書き込み」ということになるのかもしれないが、それだって、笑いとして対象化するためには、誰かの手による抽出・抜き出しが必要であるし、「抜き出しなんかするな、あれはあの場の空気でしか成立しねえんだ! あの一過性の場以外で見たくねえ!」という奴は、見なけりゃいいのである。「だからそれを金儲けにするってことが……」という奴に対しては、上記した。「そういう一過性の記事を、あたかも自分のつくったものであるかのように、自分のブログに載せやがって……」というのは、ほとんど朝鮮人である(キムチが日本のもにされている、というような議論)。
 そういうわけで、偏狭なムラ化してしまった2chVIPは、もはやわたくしの興味対象から外れる。 閉鎖空間には発展は無い。そりゃ、時々おもしろい事件があるだろうが、あとはゆるやかな自然消滅があるだけである。(否定的文意における)日本的農村で年に一度や二度、華やかな祭が行われるが、定型化されてもう発展することがないようなものである。その日本的農村と伝統の祭は、現代においてすでに滅んだ。

「地底人類もぐら」作後贅言 2006/05/23

 妙な題名が先に決まったので、主人公の名前は、もぐら、になった。
 読むのが面倒という人のために書くと、もぐらはかわいい少女である。むさいオッサンではない。
 適当な、現代連作ではない短編を書こうと思っていた。「もぐら」以前の連作の4本は、あきらかに精神疾患の最中に書いたものなので、そこから救われるような、晴れ晴れするような一本を仕上げようと思って、それならば Boy-meets-girl 的なライトノベルに勝るものはないと、方向性を決め、あとはどのような出会いが楽しいか、ということを模索しながら、何も考えずに書き始めたわけである。
 従って、主人公が煙草を吸っている冒頭と後半とはちぐはぐであるし、冒頭の書き出し時点では、何が起きるか、作者自身も知らなかった。
 どんな出会いにするか。以前、空から降ってくる、は書いた。道ばたでぶつかる、も書いた。とすると、下から穴を掘って出てくる、よしこれだ。それじゃあ題名は「地底人物語」いや「地底人類もぐら」にしようとなって、地底人だから馬鹿だよな、と適当な言葉遣いで適当に会話を続けさせていたら、結局わたくしの個人的趣味である、無敵パワーが登場して、それに対応する連中が次々と登場する、そういう運びになった。
 最初は第一章で終わる短編のつもりだったのだが、家を破壊してUT組をぶっ飛ばしてみるとオチのつけようがなくなって、仕方がないからもう一人出すことにした。第二章である。結局ドンパチを始めるわけだが、別にドンパチが目的じゃないから、適当に切り上げさせようと思って、UT組に再登場願った。そして、あのオチである。そんな適当精神あふれる第二章だから、冒頭とも第一章ともちぐはぐしているが、それはそれ、作者の気分が良いから気にしない。
 今回の「地底人類もぐら」は、「次々展開する」ことを目標とする「二十五式」で書いた。ちょっと進むとすぐに改行しているのはそのためである。テンポ良く、また事件が次々と起きて、飽きずに読み進むことが出来るんじゃないだろうか。その割に、全体としてのまとまりが無いのは、「二十六式」以降の課題ってところか。
 そういうわけで、「地底人類もぐら」が仕上がった今、これから何を書こうか、ということばかりを考えているんだが、自分の storyindex を見ると、連作四本のような適当な掌編と軽やかなファンタジー、あるいは恋愛模様ばかりである。 骨の太いやつを書きたいものだが、はて、この状況でそれが可能か、どうか。 

「地底人類もぐら」 2006/05/18

 昨日開通するはずだった南流山アパートのインターネットに電話なのだけれど、KDDIと連絡がうまく取れなくて開通が明日になるそうだ。
 さてさて、そういうわけで、とにかく明日、みなみやまページが大規模更新できるってんで、さすがに二ヶ月くらい放置していたから、ワクワクしている。 ワクワクといえば、「地底人類もぐら」がさっさと出来て、来週くらいには掲載まで出来そうという点でもワクワクしている。
 久しぶりに、適当な掌編じゃない中編を書ききって、気が付いたら原稿用紙68枚。けっこうな量を一気に書いたので心地よい疲労感にひたれている。 文研サイズだと23枚といったところがこれほど素早く書けるなんて……なのにどうして家でやっている長編は、あんなに進みが遅いのだ。
「地底人類もぐら」は、主人公「俺」のもとに、地底人少女もぐらがやってくる、という、ろくでもない話で、このもぐらという少女は、スコップを背中にかついで現れる。スコップを背負うという設定は、昔放棄した長編ファンタジーに登場させようとしていたルッコラという子を流用した。放棄した長編ファンタジーのルッコラなんてネタを知っているのは、OというかTという人だけだと思うんだが、今あの人はどうしているんだろう。小説を書いているのかしら。
 それにしても。
 屍ばたらき始めて書いたファンタジー系統は今回で四つになるんだが、「悪霊退散!」の時代劇を除いたら、みんな、異世界から女の子が出てきて主人公を連れて行く、というような話である。
 私、よほど、どこかへ連れて行ってもらいたいらしい。

時事興味 2006/05/17

 最近、「朝鮮カンサツ日記」だとか「韓流(カンリュウ)なんていらない」というおもしろおかしなページを見ているので、マス・メディアなどが昨日、今日の話題として宣伝している「民団・総連和解へ」なんて話に幾らかの関心が向く。
 わたくし、これまで興味関心が無かったので知らなかったのだが、「在日の南朝鮮人」「在日の北朝鮮人」といのがそれぞれ別に団体をつくっていて、互いに仲が悪かったらしい。これが、ようやくここへ来て「在日同胞団体の和解・和合をめざす」「行事の共催をめざす」という話し合いになった、らしい(引用は朝日新聞ネット記事)。
 どうでもいい。
 なんてことを言うまでもなくどうでもいいわけだが、私がおもしろいと思ったのは、新聞各紙の扱いで、産経や読売は、「和解するらしい」というだけなんだけれど、朝日や毎日は、事細かに書いてある。とくに、毎日新聞なんざ、紙媒体の一面トップである。どうやら、毎日新聞は、在日朝鮮人の新聞なんだと、推察するほかないかな、なんて感想も、本当のところ、どうでもいいわけだが。
 一番感心があるのは、上記したページなどでの書きぶり。

 さてさて、ようやく本日、ネットが復旧する見込みである。
 たまった日記に贅言、小説を載せようじゃないか。掲示板も復旧させなくちゃ寂しい。
 そうそう、上記したページからリンクしていた、「♪ヨン様と一緒♪」というページにNHK解約マニュアルへのリンクってのがあったので、ここにメモ書きしておく。
 http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Studio/2567/kaiyaku.html
 強制徴収にしようなんて話があるのだけれど、どうだろう。
 リンクメモ追加。これも興味深い。小説の資料になるわ。
 http://www5b.biglobe.ne.jp/~korea-su/korea-su/jkorea/nikkan/heigouji-chousen.html

私、抜け毛が多いらしい 2006/05/14

 あやまり堂日記が連休前から一週間も経っているのは、東京での屍ばたらきが怪物的に忙しくなったためというのと、ネット用の中編を書いているからである。中編の題名は「地底人類もぐら」といい、地底人の娘っ子がひきこもりの高校生の前に現れるというしょーもない小説だけれど、やはりこういうものは楽しい。苦労しまくる長編と較べると格別。これは、きっと、このみなみやまページの数字が10000を突破した記念とすることができるので、個人的な悦である。
 連休中に、何とか書き出せた長編の後半であるが、どうもうまく行かず(例の、二十一的拘泥が降っていた)、結局、13日の土曜日に後半の書き出し全部をやり直して、それからうまく行っている。まだ一章と半分だが、まあ、当面の目標を、9月締切の、小学館の新しいライトノベル賞と決めたので時間はある。 とはいえ、これにこんなに時間をかけてたまるか、とも思っているので、もっと早く仕上がらないものか。
 このあたらしいライトノベルになるらしい「ガガガ文庫(大丈夫なのか、この名前で)」大賞には、45枚から500枚だったか、分量規定がたいそういいかげんなので、ネットに放置しているどれかも一緒に送ってみることにしている。長編が一次で蹴られて短編が良いところまでいったら、切ない。
 家の傍らの人が熱心に読んでいる、「ダヴィンチ・コード」だけれど、その「人類史上最大のミステリー」なんていうのが、実はイエス・キリストには娼婦に生ませた子がいて、その子孫をダヴィンチは信仰していたっていうことなら、微妙、である。 マス・メディアの戦術はすばらしいと感心しているけれど、産経新聞のネットに、上記の内容をズバリ書いて、キリスト教関連団体が苦情を言っている、なんて思いきりネタばらしの記事があったし、あちこちの最近盛んにTV特集されるときにも、このことは割と
出ている。 それとも、キリストの実子の系譜以外に人類史上最大のミステリーがあって、最後の最後にそれが開かされるってのなら、興味が出るけれど、文庫本の結末だけを見たら、なあなあのラブ・ロマンスで締められている気がしたので、「最大のミステリー」も所詮、ハリーポッターなんだろう。
 キリスト教といえば、「巴里に死す」という実に感動的な長編を書いて、沼津市に生前から自分の文学記念館まで建てた割にあまり知られていない、芹沢光次良という作家がいる。わたくし、「巴里に死す」にたいそうびっくりしたものだから、それからずっと彼の作品を探していて、幸い、我らがBookOffで百円の「神の微笑」「神の計画」「神の慈愛」だったか、そういう三部作を見つけて、『芹沢文学の集大成』と帯がしてあったので、なるほど、危うげな題名だけれど、晩年の主要作品なんだなと、いそいそと購入し、東京にまで持ってきて読んだわけである。
 そしたら天理教だった。
 なまじ文章が丁寧で、立派な小説の体裁になっているだけに、ひどかった。「自分は無宗教だからあれこれと神について実験した」などと書いているあたりが、わたくしの南山大学時代に読まされた汚書、ジョヴァンニ・リヴァ著/アンジェリーナ・ヴォルペ訳の切支丹の布教書を思い出させるものであって、なるほど、自己の信仰を広めようとする際には語り口が似るものだなと、その点には感心が生じた。
 一冊目の「神の微笑」には、「この一冊をどうにか書き上げなくてはならない」とあったのが、そのうち「親神様の指示により三部作を書く」と来て、三冊目の終わりには「親神様のおかげで健康になったので死ぬまで延々と書き続けよう」とあったのには、笑ってしまった。布教書なら、延々書くだろう。あと、天理教の芹沢先生としては、イスラム教を否定するものらしい(アッラーと親神様は同一として、アッラー自体は肯定しているが、マホメットの広め方、現在のあり方は嫌いらしい)。
 ちなみに私は、存在を肯定する超越神のことは論理的に懐疑しているが、自己確信のためには安直であるため、人が唱えるのを否定しない。

連休だ 2006/05/01

 5月になった。
 東京へ来て一ヶ月が、さっさと終ってしまった。
 一昨日の土曜日は、昼間にNHKの時代劇を見たために「信長の野望」がどうしてもやりたくなり、午後の12時間をまるまる佐竹氏でつぶしてしまったが、日曜日の4月最終日は無事に、長編の前編を読み直すことができた。
 で。
 普通に、読めた。
 普通に、おもしろい。
 書き始め部分で小一時間首をかしげたが、その後はさらさらと、時々文章を修正するのだけれど首をひねることもなく、4時間程度で読み通すことができた。
 そこで二つの不思議な感覚が現れた。
 一つは、おお、まあ、成長してんなあ、という感覚ーーひいきをせずに読めた気がしているということがあり、もう一つは、あれ、もう読めたんだ? ということ。
 何せ、これまでの読み返し作業と来たら、一週間近くを費やして、あれでもないこれでもないと書き直し、書き直し、挙げ句の果てにはもうダメだ最初からやろう、なんてことになるものだったのだけれど、それが、さらさらさらさら、さて前半終了、という感じで行ったので驚いた。
 ちょっと待て、わしゃ4ヶ月かかってこれを書いたのに、じっくり読み返してせいぜい4時間分しかないのかい、と、まあ、自分の中で自分の苦労が確認できなくて唖然としたわけである。
 考えてみれば、これは確かに立派な成長なんだけれど、それにしたって、あの苦労は何だったんだ! と、我ながら、そりゃ読み返しておかしな所だらけでどうしようもなくなってしまうよりは、さらさら来ておもしろい、となった方が良いに決まってるにもかかわらず、苦労を苦労として確認したかった内心が裏切られて呆気にとられた。
 直木三十五という人は、書き殴った作品をほとんど読み返さなかった人で、だから作品中にときどき矛盾が登場するらしいが、何となく、その気持がわからないでもなくなった。上達すれば、読み返す必要がないと、そういうわけなんですか。
 こういうわけで、この連休中に、前半を印刷して実家で読み返そうなんて考えていたけれどそれは止めて、後半を書き出すこととする。
 幸いに先日、退屈無比の「新人研修」があって、その折に後半の最初3つの章と、「最大の謎」の概要を考えついているので、どうにか始められるだろう。
 ただ実家にはかわいい盛りの3歳と0歳の姪がいるため、小説なんてやってる場合じゃないかも知れない。

小説休憩 2006/04/24

 そういうわけで、昨日は、ティッシュの空き箱を物入れにつくりかえる、ということと絵を描くことをしたのである。
 屍ばたらきを終えて帰宅してのんびり飯を喰うとだいたい9時なので、早寝をしないと精神が病むわたくしには、24時間のうちまともに活動できるのはだいたい2時間ばかり。 この貴重無類の時間に何を為すかが非常に重要だと考えた末に、昨日は久しぶりに絵を描いた。 日記を読み返すと、2月初旬に描いて以来ということになる。
 今回は、嫁が持っていた通販雑誌の恰好を参考にした。
 まあ、だいぶ上達はしたけれどもまだ足りない、といういつもの絵ではあるが、今回は、実際の人の写真なので、やや成長した人の絵を描くことができたようである。それにしても、実際の人の顔というのは何と描きにくいのだろう。陰翳を線画で描こうとするのが無理というものなのだろうけど、それにしたって面倒だ。

小説が終った(前半だけ) 2006/04/24

 めでたく、この週末、日曜日の夜12時頃に、前半を書き終えることができた。こうなると気分が良い。
 主要人物を、筋道の妥当性はともかく、小笠原諸島へ送ることができたのである。後半は、というわけで、私の行ったこともない小笠原諸島母島(これを、SF的変換で、第二新島と呼ぶ)が舞台となる。
 一週間で終える短編のつもりで4ヶ月もつきあっているので、何だか大長編を書き続けている気になっているのだけれど、せいぜい150枚程度のことで、ページ数を考えると何だか拍子抜けがしてしまう。
 で、前半が、予想に反してというか見事に、五月の休み前にできたので、さあプラモデルかお絵かきか石川五右衛門か、なんてワクワクしているのだけれど、後半を始めることを思うととしてくる。 「次々と展開する」ことを実行しようとして色々出来事を起こし、その解決は後半に……ということで様々棚上げしてきたので、次第に、作者として進行が難しくなっているのであって、どういう後半にしようか、主要人物も増えるし、いやそもそもどうやったら無事に後半が始められるんだろう……などと、例の、ニヤニヤの困惑、が待っているのでほかのことに目が向きにくい現状。
 けれども日曜の昼に、千葉の松戸にあるバンダイミュージアム・ガンダムミュージアムへ出かけてきて、プラモデルをつくりたくなった、というのもある。 ガンダムは、ちなみに、私は無骨なやつが好きで、ジ・オとか、ガンダム試作二号機とか、ケンプファーとか、あるいは、華麗なキュベレイが好ましい。主役たる正義のガンダムはあまり興味がないのだけれど、ただ、過剰な華を装着しているウィング・ゼロだとか、隅の方のZplusとかZ?Uなんてあたりは、わたくしの個人的なツボである。 崇拝者が多いファースト・ガンダム、というやつはあまり好きじゃなく、華麗なやつと無骨な巨体がぶつかりあう戦闘が好きなのである。
 そういえばZ?Uって見ないなあと思って、あれこれサーフィンをしていたら、ガンダム・センチネルというところへぶつかって、ああ、そうそうSガンダムとかZplusというのはこの「センチネル」から登場したのかと、長年の疑問が解けて胸がすっとした感じだった。 筋自体は、まあ、大した話じゃないようだけれど設定集は非常におもしろい。 以前、長編小説の構想を考えていて、設定を考えるのが非常に楽しくて結局本編に入る前に飽きてしまった、ということがあったけれど、ガンダム・シリーズの隙間隙間の設定話は非常に興味深かった。 ガンダムMk5なんてのは、初めて知った。
 ただ粗筋や個々の機体の設計背景なんてのは割と簡単に収集できるのだけれど絵が見つかりにくいのは、悔しい。 インターネットの著作権というものがあるので、簡単に絵が載せられないというわけなんだろうけど、文字情報は簡単に転載、改編、概要説明の掲載ができるのに、絵を広めにくいというのは、著作権システムの妙なところなんじゃないか。 設定資料として文字情報が公開可能なら、設定資料としての画像情報も公開可能で、「作者オリジナル」の情報として絵の公開がダメなら文字情報だって「作者オリジナル」の情報なんじゃないだろうか。
 著作権といえば、音楽著作権団体が、デジタルウォークマンの類から金を貪り取ろうとしているという話しがあった。 レンタルCD屋に置いてあるコピー用CDRやMDには、すでに「著作権保護」を目的とした幾らかの搾取金が上乗せされていて、なるほど考えてみれば、高いCDを買う人と安いレンタルCDをコピーする人とでは、著作権の発生源たる「音」への負担率が違いすぎるから、コピー用CDRから幾らか搾取しなくちゃならない、というのは納得が行かないこともない。 で、今度は、デジタル・オーディオも、高価なCDと同様、著作権の発生する「音」を保存するのだから、幾らか負担してもらわなくちゃ割に合わない……という趣旨があるようだけれど、そんなこと言ったら鼻歌にも、脳内に保存されているんだからってんで課金しなくちゃならなくなるだろうし、どうも、「これは俺が考えたんじゃ」と叫びながら著作権なんてものを振りかざして金まみれの正義面するのは、小人根性というか、みみっちい気がしないでもない。
 著作権の権化である小説をやろうっていう私が言うのもおかしなものか。
 あと著作権といえば、著作権の中間搾取団体を先にとっちめた方が良いに違いない。マス・メディアが何も言っていないあたり、そういう中間搾取団体は凶暴化、肥大化しているだろうし、無駄だらけに違いない。
 何の話だかわからなくなった。
 とにかく、五月の休みに入るまでに10日ばかり時間があって、この間なにをしようか、ということを今この日記をつけながら考えているのだが、どうも思いつきそうにない。
 ああそうだ、このごろ、十年近く使っている腕時計の調子が悪い。修理に出すと、幾らくらいかかるんだろう……。

小説が終らない 2006/04/20

 ようやく前半が終わる、なんて書いたものの、二週間が経過したのに昨日はどうも結び方に納得が行かず、現行の展開を中止し、そのために二つの章を削る破目になってさんざんな気分である。 だいたい最近は頭がうまく動かない。何か、ぼう、としてしまってカチカチと続けていても、はてこれでいいのかしらんと自分で首をかしげつつも進行している有様だった。 やはり、そういうときに書いたものはダメなのだ。
 今の目標は、五月の連休前に前半を終える、である。これなんか、何とかなりそうである……が、週末は東京生活を満喫するため遊び呆ける必要があり、なかなか小説が進まないから不安。
 とりあえず、前半が終わったら、プラモデルをつくりたい。絵も描きたい。石川五右衛門の書き直しもやらなきゃならん。
 あああ……気ばかりが先走りしてどうにもなっていない自分がある。

東京行 2006/04/07

 ようやく東京、というか千葉の南流山へ越して、まだ家に電話とインターネットが通っていない状況だけれど、引っ越しの慌ただしさがようやく一段落ついて日記をつけている。
 生活環境は、以前の豊橋よりも向上した感があり、もっとも書斎というか、わたくしの本部屋は消失して、単に広めの台所の隅へ食器棚と壁との間に一畳か二畳ほどの空間が宛われるに過ぎなくなったのだけれど、まあ、それはそれで快適にキーボードをカチカチカチカチ鳴らすことができている。
 朝の、通勤ラッシュというものはさすがに閉口させられ、多少空いている一本早めの普通列車に乗ったり、なるべく車両の連結部付近へ身体を潜り込またりして、何とか本だけは読めるよう努めているが、まあ、たいへんである。通勤は、およそ1時間かかる。

 ようやく慌ただしさが一段落ついたということは、要するに、例の長編小説が再開されたということであるが、昨日を経てようやく、「残り一章で前半が終わる」というところまで来た。
 現在400字詰めで150枚のところなので、全部で300枚程度の長編となり、まあ、200〜400という、一般的な長編応募に最適な量になるんじゃないかなと安心してはいるんだけれど、なんと言っても、この「セカイ系大衆小説」は、この前の正月、三ガ日のお楽しみ用として30枚くらいを目算していたものなので、どうしてその10倍の大長編をつくってんるんだろ、と呆れもし、よく続くものだなあと我ながら感心している。
 だいたい以前だったらなら、こんな、途切れ途切れに書いていたら飽きるか、欠点だらけに身動きがとれなくなって、「さあ最初から」なんてことになるんだが、今回はまことによう続いている。 実際、例の「最初から書き直し」をかましてはいるんだが、これを一度かました後から今まで、根気よく続いているのである。 めでたいと言える。
 これは一つには、どうやら「二十五式」に決めている「次々と展開させる」を実行するための「三ページごとの強制改行」作戦が効いているらしい。これのおかげで、6ページ以上も延々と続く「説明箇所」「駄文会話」なんてものが消え失せ、キビキビとした展開を作り上げることを得ている気がする。 それで、作者は飽きないのだ。
 とにかく、ようやく前半が書き終わる。
 「正月休みの間に書く」「一月中に完成」「三月末に、引っ越す前までに書き上げる」「引っ越しの前までに前半完成」とどんどん目標を引き下げてきた挙句、ここまで来ることができた。やれやれ。

板谷矜持くん 2006/03/30

 いやまあ、本当に、まあ本当にどうでもいいのだけれど、板垣矜持くんというのをつくれなかったということで、「教育基本法の改悪をとめよう!全国連絡会」の賛同者で、それからWORLD PEACE NOW実行委員会「自衛隊のイラク派兵延長の閣議決定に抗議し、決定の撤回、自衛隊の即時撤退を求める声明」の賛同者であるらしい板垣信彦(ミュージシャン・小学校国語教諭)さんが、「矜持」ってとってもいい名前じゃねえかと裁判を起こして負けたそうである。
 こういうおかしな人はときどき出現しているので別にそこが気になったのではなくて……わたくしが首を傾げているのは、マス・コミが言う、『「誇りを持って生きてほしい」という願いを込めて「矜持(きょうじ)」と名付け(読売新聞)』云々という話で、夕方のTVニュースは広辞苑を引いて、「矜持」を解説していたのだけれど、いやいや、「矜持」の意味は「誇り」というより「尊大」に近かったんじゃなかったかしら。
 手元の広辞林によれば、「矜持」は単に「自分の行いに誇りを持つこと」なんだけれど、漢和辞典やら明解国語辞典によれば、「才能を誇りたのむ、自分の力を誇り、じまんする」である。
「俺の生き方は間違っていない。俺ってば、とってもすばらしいんだぜ!」というような、かなり鬱陶しい方の「誇り」である……まあ、当の板谷信彦さんが、それっぽいので鼻毛でも抜いておくしかないのだけれど。 とにかくマス・コミがわたくしの使っているような辞書から「矜持」を引用してくれたら、ニュースはもっとおもしろくなったに違いない。
 で、命名は、協持。
 持つを協(あわせ)る? 力を協(あわ)せて持つ? とにかくひどい国語教師もあったものだ。

 しかし命名は怖い。 わたくし、子種すら宿らぬ今の段階なのに、自分の子の名前……と考え始めると不安でならない。

村上春樹がノーベル賞を取るかも知れないそうだ 2006/03/24

 村上春樹がノーベル賞を取るかも、なんて話をマス・コミが流していた。
 これはおもしろい。 よりによって、大江健三郎の次が村上春樹だとすると、「ノルウェイの森ショック」を受けた大江さんがまたひねくれた言動をしてくれるかもしれない。
 これは講演会やらいろんな随筆で大江さんが実際に言っていたのだから間違いないが、流行作家だった大江さんの小説が売れなくなった頃に村上春樹がムクムク出てきて、昭和62年には、大江さんが気合いを込めた長編(たぶん「懐かしい年への手紙」)と、村上春樹の有名な「ノルウェイの森」が同時期に出たそうである。 で、村上春樹が叩き出した百万部の大ベストセラー、なんてお祭り騒ぎの隣で大江さんの本は惨たる売れ行きを示した……これがかなり、大江さんを傷つけたらしくて、後々まで、愚痴愚痴述べていたのである。
 愚痴愚痴述べていたというのは、明らかに、「俺の小説の方が断然すばらしいのにあいつの1%も売れねえなんて……」という心境がある。 文学の上下からすると、まあ、大江さんの方が次元自体が遙かに上であるから(好悪は別である)、とりあえず、大江さんの方は「俺はノーベル賞作家……」だと満足できていたに違いない。
 ところが、ここで村上春樹がノーベル賞に、なんていう話である。
 表に出たがらない大江さんの反応が知りたくてならないけど……どうだろ、マス・コミ様あたりの取材で、「ノーベル賞作家としては、この後輩をどう思いますか」なんて聞いてくれないかしら。
 さてさて、こうして村上春樹がノーベル賞を取ってしまうと、ボチボチ、ノーベル賞信仰が薄れたりしないかな。

短編の仕上げなど 2006/03/23

 「春の音」だったから、「春先の音」だったか、そういう題名で短編の恋愛ものを書きだしたのだが、どうも結末が難しくて、さらに屍ばたらきに忙殺される日がつづいて進みが悪かったので、とりあえず気ままな、短編連作、なんていう形式で「花粉症」なんてものを書き出したのだけれど、これも今ひとつである。
 書き出しからには、両方を生活が大きく変わる4月の東京行前に仕上げたいのだけれど、果たしてどうなることやら。
 ところで本棚に陣取っている筒井康隆全集が、つまらない。
 初期の「マグロマル」で腹を抱えて以降、今10巻あたりだけれど、つまらない。 どうも、時代が違う。
 大学時代にはあれほど感心したのに……とガッカリもするのだが、考えてみれば大学時代に感心したのは、「夢の木坂分岐点」「虚人たち」「大いなる助走」のあたりであった。26冊だかの全集にしてみると、20冊を超えたあたりである。
 どうやら、この人の初期作品は、あまり見るべきものがないらしい、ということが判って、同時に、見るべきものはもう見たかもしんない、とも思われて、黒白の装丁がずらりと並んでいる本棚を見て首を傾げている。
 もうひとつ話が変わって、阿川弘之「米内光政」という逸品。これが、読み終わってからの後書きで、「よないみつまさ」と読むのだと知って逃亡したくなった。 阿川弘之の立派な文章に感心しながら「よねうち、よねうち」なんて読んでいたのだからわたくし、馬鹿丸出し。
 というか、ですね、最初のあたりで「よない」とふりがなしてくださいよ。

眠たい近頃 2006/03/13

 どうも近ごろ眠たくてならない。 小説の進展が悪いのは、すべてこの睡魔のせいであるが(いやもちろん諸悪の根源となれば例の屍ばたらきである)、そう自覚していても、夕飯を食うてすぐに眠気が落ちてきて、
「仕方ない、一眠りして遅くまでやるべか」
 なんて淡い計画を立てるものの、どうやっても5分や10分でスッキリさわやかに目覚められるわけがなくてズルズルしたあとで結局、早寝する羽目になる。
 だいたい、今の「セカイ系大衆小説」は、書けば楽しいのである。 苦しいといえば、非常な苦しみはあるのだけれど、存分に楽しみながら書けるのである。 だが、眠気が書くのを阻む。 書くことを得ても、続かない。 続けられても頭が働かないので冗漫な文章になって結局、翌日あたりに思いきり削がなくちゃならない。
 昔から言われるとおり春は眠たい時期なのかもしれないけれど、それにしたって、不便だ。
 早寝したところで、早起きができるわけではない……昔、朝5時くらいに起きて書くということをしていたけれど、それももう遠い。
 屍ばたらきなどに忙殺されて、小説以外一切死、という生死観に立っていれば徹夜など厭うものではないが、眠たくて冴えない頭でまともなものが書けないという致命的な一事が、どうも、睡魔への白旗を認めてしまうことになる。
 甘えというか怠惰だね、間違いなく。

吉凶紙一重浅草寺 2006/3/2

 4月から東京へ行くことになったので家を探しに千葉県外れまで出向いた帰り、浅草寺へ立ち寄って神籤を引いた。 前にも述べたがわたくしはお神籤を信じているから、このたびの東京行が吉と出るか凶と出るか、興味深くというよりは戦々恐々と引いたのである。
 八十八番 凶
 そしてすべていっさい、悪し。
 一点の良いところも無いみくじなど、わたくしが中学校の修学旅行で凶を引いて以来のことで (ただし、このことはずっと記憶になかった。昔の、修学旅行体験記というようなものを読み返してみて、気づいたのである)、これから新天地ともいうべき場所で、期待とめんどくささを覚えつつ暮らすのだと思うていた矢先、いきなり浅草観世音に平手を喰った感である。
 堪るか。
 引き直すほかない、と意地薄弱ゆえの不安から臍を固めて百円を追加した途端に、本能寺の変の直前に明智光秀が神籤を引いて、三度引いて三度とも凶だった、というような話を思い出した (調べてみると明智光秀が凶を引いた、というのは伝承は無いらしい。何度も引き直した、という話がある)。 さてこれで凶が続いたら東京行は取りやめるべきなのではないかと胸が悪くなってきた。
 十一番 大吉
 あッ、と声を上げてしまった。 まさかそう出るとは。
 吉凶まさに紙一重ということか。 大吉が出たのも、これまた久しぶりで、大学四年を済ませてから初めて出たから、この東京行、わたくしの人生(つまり小説なんだが)の吉凶を決定づけることになるかもしれぬ。  この一年ないし二年をしくじればこの屍ばたらきの渦より抜け出すこともなく一生を終える、そういう岐路にあると見るべきかもしれない。 おそろしいほどである。

 さて吉凶のことといえば、今のセカイ系長編であるが、ファイル名を従来の「たそがれ、セカイ系」から「セカイ系大衆小説」と変えて、もうほとんどセカイ系と呼べないような物語運びを実現し始めている。 
 太平洋上の奇妙な巨大建造物、主人公を取り巻く女模様。 軍人、怪教団、財閥入り乱れてのチョコレート争奪戦、鍵を握るキーホルダー。 やがて舞台は閉ざされた小笠原諸島母島へ移る……。
 セカイ系じゃないね、こりゃ。 でも楽しいのである。


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