あ や ま り 堂 日 記

みなみやま2004/06-12 2005/01-07 2005/08 2005/09-10

日記についての日記 2006/2/16

 ようやく、大学ノートというのか、あちこちで見かける安価なノートに筆ペンでつけている日記帳が一冊、終わる。大学に入る前くらいから書き始めて、かれこれ13冊目が終わることになるんだが、この13冊目は、なかなか進まなかった。
 大学へ入る前からつけはじめたということは、4、5年の間で13冊が埋まったということになる。 一年間に2、3冊は消化していたわけだが、この13冊目については、1年半が費やされてやっと終わった。 平成16年の6月頃に書き出したものがようやく終わる。 今の屍働きの渦を、かわいらしく、「社会人ばたらき」なんて呼んでいた頃から、延々、つけていた13冊目。 日記ではなく「月記」となっているようなこともしばしばあって、ほとんど日記帳ではなかった13冊目。
 読み返してみると、わたくしの嫁が口を尖らせて「どうせ生活のことなんて書いてないんでしょう」と言ったとおり、小説のことばかりで、我ながら唖然とさせられる。
 小説のほか一切死。
 昨日の日記にふいと書いた言葉だけれど、日記が人生の記録だという意味からすると、小説以外に人生が無かったということが明言できてしまう。 いいやら、悪いやら。 率直なところ、バカである。
 毎度、一冊終るごとに、その日記帳に名前をつけているのだが、この13冊目は、疑念の余地無く、「煩悶日記」である。

停滞したあとは例のごとく最初から 2006/2/13

 さてこの週末、吉例ともなった最初からの書き直しを始めた長編、セカイ系小説。
 毎度、こういう時に書いているとおり、つまり要するに吉例である「今回は何かを見つけた」が今回もやって来たのである。
 すなわち「二十五式」がひらめいた。
 まあ、こういうことは毎度の思いこみなので、果たして実際にこれで、たいそう愉快な小説が書けるようになるのか不明だけれど、とりあえず、二十五式の「次々と展開させるべし」を実現させる一つの方法ということで得たのが、「こまぎれ」技法である。
 現在のところ、わたくしは古い一太郎で、一頁20×30文字の縦書きで書いているんだが、この再挑戦において、「三頁ごとに無理矢理、一行分の隙間を空ける」という方法で、強制的に、「次への展開」を繰り込むことを実現しようと挑んでいるわけである。
 一つの章の中に、細かな章というか、「第一章の二」「第一章の三」というような感じの、ごく短い単位を、改行することで強制的につくりあげるのである。
 これにより、「次の展開」が頻繁に意識されるし、何よりダラダラ感が排除される。 ……なんだ、こんな単純なことかと自分で呆れているわけだが、これが、有効だった。
 何せ、ごく短いうちに、前から引き続いているものを始末して、次への「引き」をつくらなくてはならない。 それと同時に「二十四式」の、「この章で書かれるべきこと」を実現する必要があるのだから、これはもう、へへへ、楽しいなんてもんじゃない。 麻薬である。
 思いついた現段階では、とりあえず、「だいたい三頁ごとのこまぎれ」になっているんだが、いずれ「三頁ぴったりでこまぎれ」にするべきかもしれない、などと思い始めている。その方が、よりスッキリする気がする。
 こういう次第で、「いつもの再挑戦」が始まったわけだが、果たして、四月に東京へ行く前に書ききれるのかどうか。三月頃に、いくつか公募の締切があるので、そこへ間に合えば押し込んでしまいたい。

小説停滞中 2006/2/2

 困ったことに、例の悪弊で、セカイ系が停滞しきっている。
 結末までの大まかな流れはすでに組み立てられているので、たぶん、書こうと思えば最後まで書けるのだろうが、やはり満足行くものにはならないんだろう。「二十四式」では駄目であり、「二十五式」に挑まにゃならん。
 その章で書くべき内容、これを書いていれば結末まできちんとたどり着ける、ということが「二十四式」であって、「二十五式」というのは、「次々と展開するべし」ということである。
 ここまで判っていて、どうして停滞してしまうのかといえば、そこがわたくしの貧弱さであって、ここにこうしてグダグダと愚痴を並べる所以なのである。
 だいたい、初手から展開していなくちゃ、おもしろいわけがない。 そこを気にしながら、二十五式に挑もうというところが、これがセカイ系の恐ろしさで、何気ない日常がいきなり世界の滅亡、というのを持ち込む必要があるので、苦しい限り。
 毎日の学校の帰り道に、いきなり空から超巨大な構造物が降ってきて、それが殺人ウィルスをまき散らす、とやると、セカイ系というよりSF小説になって、そう来た場合にゃわたくしの性格では、「この事件を受けて緊急閣議の決定により自衛隊が……」と、一個の人間、高校生の心理なんて描いてる場合じゃなくなってしまうのである。
 そりゃ、激変する社会と主人公、を描くことは可能だけれど、そこへ最終兵器ヒロインが登場しなきゃセカイ系じゃないので、軍事機密を絡めつつやろうとすると、どうしても、そのヒロインが特別兵器なのはどうしてなんじゃということを考え始めて、すると、仮にコーディネーターだとか宇宙人だとか人造人間だったという設定にするにしても、恋愛目的で唐突に主人公の前に単品で現れる必然性を構築するのが困難で、どうしても組織が絡み、組織が絡むとなると主人公の高校生を組み込まなくちゃ展開しなくなって、するってえと、主人公もコーディネーターなり宇宙人なり人造人間である必要が出るんだが、一般人という規定を変えたくないので……と、矛盾がポッコリポッコリポッコリ出てきて、それは潰せることは潰せるんだが挙げ句の果てに、「次々と展開するべし」という目標が崩壊してしまう、というのが現状なのである。
  ↑きっと、こういうのでも、「次々と展開するべし」を書くことは可能なんだろうけど、今のわたくしにゃ難しい。 ……腰を据えてカッチリやろうと思えばいいのかもしれんが……ああ……そりゃやらにゃいかんのだろうが……ああ……そうか……そうするか……ううむむむ……。
 とにかく再び絵を描き始めて、この頃は、女の子も多彩に描けるようになったのだが、はたと、服が描けないことに気づかされた。 ファッション。
 なるほど、現実世界に生きるわたくしは、これほどファッションに興味が無いのかと、つくづくガッカリさせられる。 服装が、何一つ思い浮かばないのだ。 ……ファッション雑誌か、通販カタログか、そういうのに頼るしかない。 もちろん男性の服装も、男性たるわたくし当人に興味が無いのだから、描けるわけがない。

昨日の続き 2006/1/31

 こういう話が大好きだから仕方がない。
 人間的な存在認識のひとつだと思うのだけれど、とりわけ日本人は、対象をどう捉えるかを決定してから自己の立場を決定する、という自己確認を取るため、対象にベッタリとレッテルを貼り付けがちである。
 子供に話しかけるときに、「ねえボク、どうして泣いているのか、お兄ちゃんに話してごらん」なんて言うときには、明らかに、相手から見た自分、という方式で、自己を決定している。 そればかりか、「ねえ、ボク」というときに、相手が彼自身のことを「ボク」という一人称で呼ぶことを決めつけているのである。
 相手が何者であるかは「わたし」の側が決定して、しかる後に「わたしの立場(お兄ちゃん)」を決定するのである。
 この方式を広げると、「兵士=悪魔×それを否定する自分=善」なんていうけったいな図式でお祭り騒ぎをする連中だとか、「兵士=英雄×それを擁護する自分=善」という図式を立ててギャンギャン吠え立てている連中のことが、おぼろげにも理解できてくるんじゃないかしら。
 先行的に、対象を価値判断しておいて、しかる後に自己の立場を決定する。(この方式が日本人だけに適用されるわけではない。白人どもだって、人間誰しもこういうものだ。わたくしもネ)
 とにかく、こういう図式があるから、対象が、こちらの貼ったレッテルと違ったことをするのは「意外」だし、「信じられない」のであって、それがあまりに大きくなると、相手に貼り付けたレッテルによって自己の立場を規律しているのだから、そのレッテルが剥がれることで確保していた自己が保持できなくなってしまうからパニックになる。
 したがって、「兵士=悪魔×それを否定する自分=善」という図式で自己を規律している連中に、「兵士たちだって国を思って……」というようなことをいうと、病的な熱意でもって、様々な手段、支鮮方面からの引用でもってその意見を封殺しにかかることになる。もちろん逆も然り。
 こうなると白人的な、「学問的記述態度」が優れているということができる……気がしてくるのだが、読者が白人どもではないと、「何だこいつ、自分だけは違う、みたいな態度取りやがって」と反感を買うことになるのである。きっと当あやまり堂見物客も同じだな。
 さて、こういったあたりで、「ところでそれじゃあ、あんたは、兵士たちをどう思うんだ」なんて訊かれそうだが、ふふん、こちらが客のレッテル貼りを手伝う必要なんて無いのだから、正直に、「知らん」と答えるばかりである。
 実際、知らないのだ。

 ところでセカイ系小説なんだが、どうも例のもやもやに引っ絡まって身動きが取れなくなっている。どうやら中盤で、結末がわたくしの中で見えてしまうと進みが悪くなるという悪弊があるらしい。 そして再び最初から大訂正……。
 うっひー! 行くぞ、最初から!

インディアン 2006/1/30

 岩波現代文庫で「イシ 最後のインディアン」だったか、そういう本を読んだ。
 1911年に北米で保護された、「野生の」インディアンの話で、要するにイシというのは、1911年になるまで、アメリカ合衆国政府に認知されずにコッソリと生き延びていた原住アメリカンの末裔の名である。文庫本の構成としては、前半が彼の「インディアン時代」、後半が州政府に保護された「博物館収容時代」というものだった。
 おぞましい白人どもの侵略から逃げ続ける彼の民族が、最終的に五名になってもなおも逃げ続け、さらに彼と彼の母親のみになり、挙げ句の果てに母親が死んで彼一人が路頭に現れる、という物語など非常に興味深かったのだけれど、文中で一番興味深かったのは、その語り口である。  ヨーロッパ大陸で細菌汚染された肉体を運び込み、土地を奪い、原住アメリカ人を虐殺しまくった白人どもが、被害者たる「インディアン」を描くという西洋学問の語り口である。
 この場合、筆者は白人で、「加害者」の側にいるのだが、筆者としての立場は、原住アメリカンの「友人」ともいう立場で、過去の白人どもの侵略の過程をことさら正当化したり逆に過剰に批判することもない。
 なるほど、こういうのが「学問的記述」かしらん、なんて思わないでもないが、いかんせん、「滅び行く民族」というのに非常な魅力を感じているのだ。
 それを滅ぼした悪の権化、白人どもが憎くてならない。
 おめえらが殺戮の限りを尽くしておいて、「良き友人の一人として……」とか「彼の最良の年がこうして……」とか言うのが、どうにも胸糞悪い。
 ここではたと気づいたのが、彼らの「個人主義」であって、「白人民族が犯した罪」なんてものはコレッポッチも関知していないのだということに思い至った。
 これは、わたくしにしてみればたいそうな発見で、我が国のマスメディアの大騒ぎしているような、先の大戦争に対する「反省問題」の語られ方の奇怪さが、このインディアン虐殺に関する語られ方との相違を考えることで、多少なりとも理解できたのである。
 わたくしの結論だけを書くと、日本人的には、自己の立場を、相手を通じて判断するために、「レッテル貼り」作業が非常に重要な意味を持つことになる。
 一方で、白人的には、神のつくった自己はとりあえず善であるから、相手が何であろうが知ったことではない。もちろん先祖だろうが身内だろうが、とりあえず自分は善、それで相手を判ずる。
 ……続きはまた考えるとする。

お祭り 2006/1/18

 この前の正月を期に、新聞をやめているので、マスメディア情報はほとんどTVばかりから仕入れることになるんだが、今回の祭に際しては証券法なんて小難しいところが出てくるので、さすがに新聞に価値があるのだなと感じた。 TVなどでは、「あいつは悪党のくせにふてぶてしい」という解説以外、まともに喋っていない。 
 といって、所詮、どうでもいい話なので、新聞をまた取ろうとか週刊誌を読もうなんてこれっぽっちも思わない。「健全な証券業界とライブドアの“脱法性”」などという議論、わしにゃ関係ない。
 まあ、売り残していた私のライブドア株計2万円弱が大安売りの目に遭って半笑い、ということ以外、ドーデモイイ。
 一方のインチキマンション祭の方は、ヒーザーと、何だか発音に困るような会社の社長の、ファッションセンスが気になって仕方がない。 最初は「ザ・悪党、ここに極まる」なんて風貌だったのが、次に現れたときには髪を切り、きれいに整えてだいぶ小綺麗にしていたところ、昨日、証人喚問へ現れた時にゃ小さな黒縁眼鏡までしていたのである。
 たいそうな、イメージ・アップ作戦であり、わたくしから見ると、その作戦、充分成功している。 マスメディアに囲まれて困ったような態度をしていたがそれも、きっとイメージ・アップ作戦の一環なので、イー・ホームズのハンサムな支店長のように顔がまともだからと油断してたらたいへんなことになるかもしれない。
 まあ、どうでもいいけどね。
 だいたい偽装なんて、お役所仕事(関係者全員がお役所仕事)が怠慢だったからというほかないし、体裁だけ整ってりゃハイ認可、なんていうのは、わたくしの墓場(職場)のみならず大流行しているではないか。
 逆に内実をしっかりやっていても、表面上が旧来の慣習に引っかかるような場合にゃ袋だたきに遭うわけで、ライブドア祭も偽装マンション祭も、結局同じようなものである。
 そういえば、同じようにどうでもいい話が、変態宮崎勤の精神鑑定だとか犯行動機の解明っていう議論で、どうやってあんな男が出来上がったのかなどどうでもいいじゃない。 あのような残忍な事件が二度と起きないようにするため……? どうやって?
 本気で解明したきゃ少なくとも親を精神鑑定して徹底捜査すれば多少はわかるかもしれないが、そもそもスッパリ解明できると思うているのかしら。 仮に解明したとして、人の内心の自由をどうやって規制・改造するのかしらね。 そんな非合理的な話で無駄飯ぐらいの狂人に税金を払うべからず、さっさと殺せ。
 愚、愚、愚。 
 新聞をやめてもTVをつける限りは、こんな愚痴が口から出てしまう。 これも愚。
 そうすると、TVはビデオを見るだけにするか。すりゃ、NHKに金を払わんで済む。

 あれれ、今日は、昨日読み終わって、涙が出そうになった阿川弘之「井上成美」について書こうと思うていたのに、何じゃこりゃ。
 そうそう、ぼちぼち、みなみやまページが大更新できる。

「進化」考 2006/1/17

 機会があったので、ここで考え直してみる。
 アメリカでは、学校の授業に於ける進化論だとか創造論の扱いが問題になっているらしい。 曰く、Inteligent Design。
 キリスト教というか、唯一神を渇望するユダヤ教系からすると、ダーウィンの云ったような「猿から人間に進化した」という進化論は、「偉大なる唯一絶対神が人間を創った」という創造論からすると不愉快であって、創造論を学校で教えたいのに、「政教分離」の廉で不許可となっているのが、どうにも我慢できない。 それで捻り出したのが、「Intelligent Design」という考え方。 要するに、こういうことである。
「仮に進化があったとしても、単細胞だった状態から、現在のような高度知的生命体である人間にまで進化させるためには、やはり高度な知性が介在していたと考えざるを得ない。VIVA、高度知性!」
 自己の存在を偉大なる存在が保証してくれなければ不安で生きていられない切支丹系の人がこれに飛びついているらしく、「非科学的だ!」「根拠がない!」「カモフラージュされた宗教教育に過ぎない!」などという批判を浴びつつも、「いやいや、これほど複雑な生体組織がひとりでにできあがったとは考えられないではないか」「そもそも無から有は生まれないぞよ」「創造には『高度な知性』によるデザインが必要でおじゃる」という反論を上げて、アメリカではけっこう重要な教育問題になっているらしい。
 どうでもいい。
 そもそも、「科学的」という次元そのものが、「神話」なのである。 両者の唯一の違いといえば、「検証可能」か否かであるとされるが、仮に検証、再現ができたとしても「絶対」にはならない。 或る事実が科学的に証明されたというのは、「その事実である確立がきわめて高い」ということにほかならない。 それが「科学的」な「科学的に」に関する説明というわけで、要するに、実生活に於いては、どうだっていい議論、ということになる。(もっといえば「科学」を証明するために「科学」が用いられるんだから循環論法である……まあいいけど)
「神話」が成立していたくらいなんだから、人間が太古にさかのぼって生命の原初を探したいのはわかる。 だが結局のところ、本当に納得することが出来るもんじゃない。 神話・創造論を持ってくるにしろ、原初生命の前に何らかの存在が「いた」と言いきって議論を止める必要があるし、科学的に仮に無生物から進化を繰り返して今日の生命が現れたことを証明・再現できたって、それが真実、今の生命のあり方に変化して行くことが再現できるわけではない(何せ巨大な宇宙空間というところで何億年もかかったらしいのだ。省略しまくる必要がある)。
 そういう次第なので、科学だろうが神話だろうがIDだろうが信じたいものを信じたらいい、という結論になった。 わたくし個人は、日本神話を選ぶ。
 ということで、どうして進化が起きたのか、と問われたら「そもそも進化なんて、知らん」というのがわたくしの態度であるし、それから、この人類が今後進化するか否か、ということを訊かれたなら、「遺伝子操作、機械化による進化は、そりゃ、達成されるだろうが(そもそも眼鏡の存在からして、近視の人からすると「進化」である)、現在の自我認識方式が維持される限り、精神的な『進化』はあり得ない」ということが言える。
 現今の自我認識というのは「他と区別される範囲に成立する自己」というやつで……ああ長くなっちまったから、もういいや!

週末セカイ系強化 2006/1/10

 偶然ではあったが、この週末にセカイ系作法を強化することができた。「ライトノベル」3冊と映画一本。
 BOOK OFFの正月セールで買った3冊は、「涼宮ハルキの憂鬱」「キノの旅」「ブギーポップは笑わない」であり、映画は「銀色の髪のアギト」であった。
 三冊の小説は、前に揚げた順番に読んで、「涼宮ハルキの憂鬱」がおもしろかった。 題名が秀逸だと感じた。 ストーリィの発想は、筒井康隆「パプリカ」のしょぼい版と考えられたのだけれど、ライトノベルらしい人物造形が優れていて、うらやましいとさえ思った。 無理矢理に「萌え」要素が注ぎ込まれているのだが、その無理矢理を、主人公既定の強引な性格で丸め込んでしまうという発想は、なるほど、と感心させられた。
 これに較べると、ほかの二つはだいぶ劣って、特に「ブギーポップ」は、わたくしにはまったく評価できないものであった。 それはまあいいや。 とりあえず三本を読んで、空気を吸収できたかと思うので、さっそく、書きかけのセカイ系に反映させることにした。
 で、割と期待しながら見た映画「銀色の髪のアギト」は、率直なところ、オープニングのみが、おもしろかった。 本編の「前史」といったものが主題歌とともに描かれるのだが、それだけでわたくしなどは大満足……だったため、本編には幻滅した。 オープニング部分を本編にすれば良かったのに……本編でも映像には感動できた。

 この後、昨日月曜日に浜名湖の北の奥山方広寺・半僧坊へ初詣行き、「小吉」を引いた。
 そろそろ今年あたり、大吉が出るだろうと思うていたから、ガッカリである。 もうしばらくは、小説に苦しみ、屍ばたらきに腐らねばならないと出たのである。
 おみくじは当るというわたくしの信仰。 これは、「おみくじが運勢を決定する」のではなく、「現在の運勢が、おみくじに現れる」という信仰である。
 大学・文研時代に小説の上昇気流に乗っていた頃は大吉が四年続いていたのに、屍ばたらきにまみれて以降は、末吉、小吉、ばかりになっていることから、信仰は確立された。 そう考えれば、おみくじというのは引いても引かなくても運勢が変わることはないのである……が、今の運勢というのを改めてつきつけられることになるので、「ああ、今年も苦しいのか」と百円を投げるだけで覚悟を決めることができるから、ありがたい。
 それでさっそく覚悟を決めた晩に、わたくしからすると夜更かしをして、セカイ系を書き続け、結末までの骨格が出来たのは重畳。 それから、以前の長編作法での煩悶の最中に出た「蛇足の付け方」が、ひょいと達成できている気がして、これまた嬉しいのである。
 その蛇足。 本筋の本筋……今回のセカイ系で云えば、主人公が世界の崩壊に出会う、というような筋には、直接関わりない脇役たちと関わりであるが、これを描き込むことで、小説に自分で驚くほどの広がりが出た。 つまり蛇足は本筋を強化するのである……うまく書けたなら。
 こう考えると、本筋と関係ないとはいえ「蛇足」は、単なる蛇足ではなく、言うなれば、蛇に足のみならず牙や角、髭を付け足して龍を描く、などというとおかしいが、そういう一面もあるということである。 龍といえども、手足や玉や雷雲、牙、様々な部品が欠けていたなら、ただのミミズである。

 こうしてセカイ系強化をしたこの週末。
 明けて本日、阿川弘之「井上成美」を読み始めたところ、その日本語の「格」に、最初のページだけで圧倒されてしまった。 上等な日本語に触れることを忘れてはならない。

たそがれ色のセカイ系 2065/1/4

 大掃除が終った30日にふと始めてしまったジグソーパズルのお蔭で、小説はあまり進まなかったのだけれど、とりあえず「たそがれ色」というのを頭に置きながら、第一章を書いた。もちろん世界が滅ぶというのが既定されている。
 書き始めて、改めて思ったのだが、やはり、根本的に、思春期にある主人公という小さな人物と世界の滅亡という巨大な出来事とを直結させるのは困難である。 この設定を立てる時点で、物語は破綻しているのである……が、そこを敢えて書く。それはそれで楽しいのである。
 主人公の名前は羽生伸一。高校二年生、図書委員。恋人は三池綾葉。同学年、陸上部。
 それからヒロインとその弟。
 ほかに、ごつい研究者、軍人、ヘンタイ。
 こんなところで、セカイ系っぽい基本人物群が出来上がるだろう。 何だかどこかで聞いたことがあるような人物相関図なのは、セカイ系だからである。
 ちなみにヒロインの弟が、空を飛んで宇宙人どもと戦うことになる。
 とにかくさっさと書き上げなくては。 今は次の課題がズラリと頭の中に並んでいるのである。 石川五右衛門のPC入力と「悪霊退散!」の長編。どちらも長編である。
 この長編小説づくりについて、どうだろう、やっぱり数をこなすことが一番の修行になるんじゃないだろうか。大学、文研時代に短編を三十本くらい書いたあたりから調子が良くなってきたようなもので、長編も三十本くらいは書かなくては満足行くものが書けないのかもしれない。 長編は長い分だけ苦労が続く……ただそれだけのことなのかもしれなかった、と年が明けて思い始めている。 短編と作法が大きく異なるなんてことは無いんじゃなかろうか。
 そんな新年セカイ系小説。 短編のつもりだったが、たぶん、かなり長い話になる。

セカイ系小説始め 2005/12/27

 さて、年末年始の私のお楽しみとなるセカイ系小説。どんな内容にするのかといえば、高校生の男女と世界の滅亡、ってのが王道だと思うので、それ。
 深く考えずに疾走したい。
 ところで昨今のライトノベルには(といっても、今読んでいるのは2年前の電撃hpだが)、セカイ系と呼びやすい虚無的な話と、やたら主人公が惚れられる萌えっ子の話とがあるような気がする。というより、その二種のみである気がする。
 どちらも同じ穴から派生していると考えられるわけだが……曰く、シリアスとおバカ。 この二つ、考えてみれば両極端であるが、きれいにライトノベル界に同居できているのはおもしろい。
 このセカイ系に、大衆文芸的技法「次々に展開するべし」なんてやつが適用できるかどうかを考えているんだが、まあ、どうだろう、難しいかもしれない。 とするとあまり書く意味は無いのだが、まあ、書きたいものは書きたいのである。

石川五右衛門を書き終えた 2005/12/26

 久しぶりに、手書きで100枚を書き抜いた。枡目の無い紙へ小さな字を書き込んだので、原稿用紙だと150枚くらいだと思われる。 これだけを手書きで、くじけずに書ききれたことにはほっとしている。
 肝心の中身については、やはり、満足できていないので、例のごとく、この「次への反省材料」を抱えて、あやまり堂へ新たな作文過程の愚痴を並べることになるだろう。
 この五右衛門(題名は「浜の真砂」というのだが)ほとんど架空の人物伝をもとにした小説とはいえ、歴史ものであるので、なかなか困難であった。 大坂の町の地形は! 大坂城が見える場所は! 船着場は! この時代の京都色町(島原)は! なんてことに悲鳴を上げつつ、資料の不足を嘆きまくりながら、何とか書き上げたわけだが、きっとおかしなところが多いだろう。
 このところは長編に挑み続けて挫け続けているわけだが、「短編と同じ作文方法」を取っている限りどうにもならないんじゃないか、という恐れがあった。 長編ならではの「余裕」だとか「遊び」「脇道」「横道」「蛇足」が無くてはいけないんじゃないか。
 それを、今回の五右衛門の最終章の手前で追加しようとして、結局「この章で描かれるべき事柄」を考慮して無駄を排除することを選択した。
 思うに、蛇足は、やはり蛇足ではないのか。 「長編ならではの遊び」といったところで、それがまったくどうでもいいような内容であるなら省かれるべきである。
 一方でしかし「遊び」が欲しいと感じるのは、長編ならでは、というよりも「人物を錯綜させ、出来事を錯綜させる」必然の中で描かれるべき内容が不足している、ということになるんじゃないだろうか。あるいは、人物も出来事も大して錯綜していないゆえに、描かれるべき事柄が決定的に少ないがために、物足りないということになってるんじゃないだろうか。
 そう考えると、短編も長編も、作法として「無駄なことは描かない」「ここで描かれるべきは何か」を考え続けることは正しい。むしろ、それをしなければ、冗漫になって、読み進むのが苦痛になってしまうんじゃないか。或いは、読み飛ばすだけか。
 ということで、長編というのは、「複雑な人物関係、複雑な出来事が入り乱れるために、必然的に長くなっちまった」小説と云うことが出来そうで、小説作法としては短編と異ならないようである。
 そんなことを思いついた五右衛門の作後。
 この次に挑むのは、セカイ系中編であって、今は百円で購入した2年前の「電撃hp」というのを読んでいる。セカイ系小説の頂点と評判の「イリヤの空、UFOの夏」という小説の最終回が掲載されていたもので……もちろん論ずる価値などないのだが、そういうセカイ系を感得することには価値があると信ずる。
 ところで、本日みなみやまページ掲載にした「蜘蛛まみれ」というのは、まあ、どうでもいいようなものであるが、贅言で書くような皮肉を込めたので、そこは、新しい。 とはいえもう少し具体的でないと、おもしろみに欠けることになる。

この一ヶ月半 2005/12/21

 気がつけばこんなにあやまり堂が停滞していた。 短編はもとより贅言すら書けていない。
 それもこれも、屍ばたらきに忙殺されてしまっていたからである。 わたくしのネット経営は、基本的に屍ばたらきの最中に行っているので、更新が滞っている場合は、「あれれ、あの人、社会人的にちゃんと働いてるんじゃないの?」などと、ここの稀有なあやまり堂見物人は、考えていただけたらと思う。
 さて、この一ヶ月と半分について。
 何をしていたかというと、基本的には、石川五右衛門、である。
 久しぶりの時代小説と意気込んで、当初目標は、文研時代に目標としていた「九州さが」の70枚だったのだが、字数が遙かに超過し、締切もとうに過ぎて、こうなったらとことんまで書くのだと気合も新たに書き継いでいたら、結局、なるほど、こうしてわたくしは行き詰まるのかというのを幾度となく体感することとなった。
 長編といえども、どうやら、描き方が短編と同じようになっていたようである。 ゆえに、おもしろみに欠ける。
 それで、要するにどうしたらいいのだろうと考えているのだが、次々に展開させるべし、なんてわけのわからないことが浮かんでいる現段階である。 吉川先生だとか直木先生だとかの展開のさせかたを考えると、どうすれば良いのかが見えてきた気がする。
 枡目の無い白紙に80枚以上を手書きで来ているこの期に及んでは、この石川五右衛門を一から書き直すつもりはないので、気づいたことはすべて次に生かすこととするが、五右衛門の終章あたりを、それ以前の文体・雰囲気と違えてでも、体得しつつある長編作法を施すこととする。
 一方でこれほど行き詰まったのにまだ書き継げているのは、「この章では何を書くべきなのか」ということが念頭にあるからである。 必要な内容がわかれば(おもしろみに欠けるにせよ)続けることはできるのである。 その点は、成長であると確信する。

 ところで、時々、相変らず描いている絵について、この頃、「ヤット(女)」「マドウ(男)」というのをつくってみた。
 どこかにコッソリ載せようなんて言っていたけれど、とても人様に見せられるような絵じゃない。

絵を始めて2週間ちょっと 2005/11/10

 だいぶ、絵が描けるようになってきた。
 といっても、そりゃ、ネット上でも見かける様々な上手な絵には遠く及ばないわけだが、それでも、最初と思えば。
 この自己申告の「上手になった絵」を、公開しようか封印しようか首を傾げているが、まあ、その首傾げにふさわしい方法でこのみなみやまページに載せるかもしれない。
 とりあえず描きたかった、背景の中に男の子、女の子がいる、という絵がひとまず果たせたので、あと少ししたら小説に戻ろうと思う。 わたくしの練習の過程としては、台所の絵、男の子、女の子、と来たので、昨晩描いたのは、「台所から女の子が土鍋を持ってくる」という絵である。
 ちなみに、男の子の名前はミレン、女の子はコマルであった。 女の子の顔が、ちっとも描けなくて、描けなくてたいへんだった。 どう足掻いても目が描けないのだ……何冊の漫画が傍らに置かれたことか。
 いずれにせよ、だいぶ描けてきた……背景、人物を頑張ると、鉛筆書きでも小一時間があっという間に経過するというのは、なかなかおもしろい体験だった。
 そろそろ、山の上から町を見下ろす、とか、住宅街の上を飛行している、というような爽快なやつを一発描いて、石川五右衛門と行こうではないか。

セカイ系を考え続ける 2005/11/07

 昨日、レンタルビデオ屋へ出向き、そこで改めて、アニメの多いことに感心した。 にわかに増えているアニメといえば、萌えかセカイ系か、というところだが、目下の所、セカイ系を考え続けている。
 セカイ系を考え続けた挙句、何だかこの頃は、セカイ系的恋愛もの、と古典的恋愛との違いが分からなくなってきたし、セカイ系と、「通常の」ヒーロー、戦隊ものとの違いも分からなくなってきてしまった。
 それで、「ひょっとしたら、全部同じなんじゃないかしら? 物語として、それほど大きな変化は生じていないんじゃないかしら?」ということを考えるようになった。
 大きな違いといえば、対象年齢が違う、ということくらいで、少なくとも、セカイ系的アニメと、昔からのTVでのヒーローものとの差はあまり無いんじゃないかしら。 セカイ系とくくられるのは、物語成立・変化の過程で登場した「必然」の結果に過ぎないのかもしれない。
 相変らず、とりとめのないことを書きながら考えているが、「セカイ系」とくくって、最近の物語がさも特異であるかのように言う場合があるが、実は、大きな質的変化があったわけではないのかもしれない。
 五人戦隊やウルトラマンといった、古典的ヒーローもので、例えば、ヒーローが乗り込む巨大ロボットが怪獣を「退治する」とした時に、この「退治」に際して、如何に退治するか、相手の立場、乗員の心理、怪物の身体的構造に基づく血潮の設定、といった要素を、綿密に描き込むことで、「セカイ系」になるのではないか。
 ウィキペディアによる「登場人物の心理が世界の滅亡に直結する」ということは、旧来のヒーローものにも当然存在する問題である。 つまり、五人戦隊のリーダーが思春期であったとして、発芽しつつある恋愛感情がピンクに向けられつつ、もてあまし、五人の連携が困難になる、という話だと、エヴァンゲリオンである。
 お?
 だらだら書きつつ、今気づいたのは、「主人公が思春期」という点である。
 考えてもみれば、通常の五人戦隊ものは青年(二十歳くらい)で、要するに、思春期の心の揺れ動きを終えた「精神の膠着を身につけた年齢」である。 もしくは、鉄人28号だとか、もっと古典的になれば少年忍者猿飛佐助のように、ガキんちょが機械、幻術、大人の力を借りて活躍するという話であった。
 何より視聴者・読者として想定されるのが子供たちであり、この場合、特に子供が主人公であるなら、ただまっすぐ「敵を退治する」を主軸に持ってきて、それだけで脇目を振らずに物語を組み立てれば良かった。 基本的に(少なくとも想定される)子供の目線はまっすぐ一直線である。
 そして大人が主役のウルトラマンや五人戦隊であっても、(対象者は間違いなく脇目を振らない子供である上に)、悪を退治する「任務」「使命」「掟」を有している故に、脇目を振る必要がなかったのだ(脇目を振るとセカイ系である)。
 おや?
 主人公(ないし視聴対象者)が思春期層にあるということと、与えられる使命に於ける脇目を振ること、この2つが、「セカイ系」ではなかろうか。 また考えを変えることになるかもしれないが、何だかこんなふうに言っても良いかもしれない。
 物語史上、思春期特有の「揺れ動き」を、「揺れ動き」として描くというのは、新しい(だが特異ではない)。 これまでにも、思春期に揺れ動きながら最後には「成長を獲得する」という話は数多かったろうが、「成長」を主題に置かず、「揺れ動き」そのものを、SFないしファンタジーの厳密な設定のもとで描き込んだのは、新しい物語形式として隆盛するのも頷ける。 とはいえ、いずれ物語形式の浮沈があるのは、まあ、史上当然というべきで、十年か二十年したら、別の様式が流行するだろう。
 ちなみに「萌え」については、きっと論ずる価値は無い、というのがこの頃の感想である。 もう一ついうと、このセカイ系の様式は、要するに、「ひねくれた大きなガキども」の物語だということが言えるようでもある。


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