皆様のNHK地域スタッフ

  

 神林猛馬は、NHK地域スタッフになった。
 就職したところで残業地獄が待っている民間企業なんて、就職活動をするだけでも馬鹿げていると思っていたし、といって、楽な公務員になるために、高い金を払って公務員試験塾へ通うのも愚かしいと、確信していたからだ。
 猛馬が、NHK地域スタッフに初めて出会ったのは、大学時代の一人暮らしアパートに、その地域スタッフが、頼んでもいないのにやって来たためである。
 それまで猛馬は受信料を払っていなかった。
 そしてそのときも当然、払うつもりは無かった。
 訪れた地域スタッフは意外と若く、猛馬より二つか、三つ年上という男だった。猛馬が戸口に立つと同時に、よかった、ようやくお会いできた――と嬉しそうに言って、
「受信料をお願いします」
 と続けたのである。
「確か法律では、契約自由の原則がありますよね」
 と猛馬は、インターネットで仕入れた知識を使って、さっさと拒んでしまおうとしたが、
「おっしゃるとおりです。契約を結ぶか結ばないか、契約の内容や形式をどうするかは、国の干渉を受けず、当事者間の自由意志によるよって決まるべき性質のものです。ですが、20世紀になってからは、この原則を適切に制限することによって、社会の私法関係を是正しようとする傾向が強くなってきたのですね。放送法の規定は、自由意志で受信機――つまりTVを設置した人は、NHKの放送を含む放送を受信する意思があると認めて、それで受信契約をしてもらうわけなので、受信料を支払っていただくためのこの契約は、何ら、契約自由の原則辞退に抵触するものではないんですよ」
 わけのわからない文句とともに、そう微笑んだ訪問者は、それからも滔滔と弁舌をまくしたてて、最終的には、猛馬から受信契約の印鑑と口座振替確認書を獲得して、颯爽と立ち去ったのであった。
 12ヶ月前払い口座振替で、年額14,910円。
 NHK地域スタッフは、数分の弁舌のみによって、猛馬の銀行口座から、貴重な金銭を収奪していったのである。
 この記憶が、猛馬にNHK地域スタッフへの道を示したことは、間違いない。

 大学3年、4年次の就職活動期にどうしてもやる気が出ず、ずるずると、就職説明会への参加を見合わせていた猛馬は、大学卒業と同時に、無業者となった。
 だがフリーターとして低賃金アルバイトに従事するのは、民間企業への通常就職以上に、愚かしかった。数万円の小遣いを稼ぐ程度ならともかく、生活の糧を得るための職業としては、フリーターは最悪だと確信していた。
 といって、「新卒」の時期を逃した自分が、今さら、名前も知らないような中小企業へ就職することはできない。そんなことは、彼のプライドが絶対に許さなかった。
 株のデイトレーディングで、月によっては4,5万円の利益を上げていたことも、彼のプライドを高いままにしていた。
「安月給でこき使われるなんて、馬鹿だ」
 彼はそう呟いて、いっそう株のデイトレーディングに熱中するようになったが、サブプライムローン問題のために三十万円ほどの赤字を抱えるに至って、株への興味は失せた。
 生活費は、何だかんだ理由をつけて親に送金させていたが、特に小遣い銭が欠乏した。
 切実に働かざるを得なくなった。
 そして、ネットの求人情報サイトを見ては、独り言をつぶやく日々を送り始めたところで、再び、あの地域スタッフに出会ったのである。

「こんにちは、神林さん――」
 と、アパートの廊下で出会うと、彼の方から挨拶してきた。
 誰だ――?
 とは、思わなかった。
 忌まわしいNHKの犬。
 すぐに思い出した猛馬は、疎ましげな目を向けてやったが、彼は親しげに、
「4月以降もこちらにいらしたんですね。私も変らず、この地区を担当させてもらってるんですよ。今後ともよろしくお願いします」
 そう言った男の名札を見ると、
『皆様のNHK 地域スタッフ大須賀歩辰』
 と書いてある。
 歩辰?
 と、名札を見て不思議そうな顔をしたのを、目ざとく気づたのだろう、
「あゆた、と読むんですよ。大須賀あゆた。変った名前で、毎回言わなくちゃ人にわかってもらえないんですけど、そのお蔭で、会話のきっかけになるんで、逆に助かってます」
 と、大須賀歩辰は、かわいい顔をして笑った。目がきれいで、笑うと八重歯が見えて、左の頬にえくぼができた。
 この顔で、金にうるさいオバサン連中を口説いているのだろうな――と思っていると、
「そうだ神林さん、今お時間ありますか? NHKの衛星放送について、ちょっとご説明させていただきたいんですけど」
 そう微笑まれた猛馬は、大学卒業以来、誰とも会っていなかったし、何となく、彼を玄関まで通してしまった。
 NHKの衛星放送受信契約は、年額25,520円。年額14,910円の地上波受信料でさえ不満な猛馬だ、検討にさえ値しない。
 が、とにかく、大須賀は話はじめた。
「NHKの衛星放送には3つの局がありまして、まずBShiでは、次代に残すべき文化・芸術の紹介とともに、地球環境問題について理解を深める番組を放送しています。それからすでにご存知かと思いますが、BS1では『ニュース・情報番組』『ドキュメンタリー』『スポーツ』の3本柱で、何て言いますか『地球の今』をお伝えしています。ちょっと大げさかもしれませんけど、『地球の今』的な番組編成でがんばらせていただいています。あと、BS2では懐かしいアーカイブス番組や、幅広いジャンルのエンターテインメント番組を放送しているんですね」
 流れるような弁舌と、生き生きと動く瞳の美しさ。それからつやつやの肌や、なめらからスーツ生地を見ていたら、猛馬の中で妬ましさというか、疎ましさが起きてきて、
「大須賀さんって、若いですよね。受信料を督促に来る人って、もっとおじさん、おばさんかと思ってましたけど」
 と嫌味な口調が出た。
 が、大須賀は意に介さず、むしろいっそうさわやかに笑って、
「僕もそう思っていましたよ。でもこの仕事、けっこう動き回るんで、若い方が向いてるんですよ。給料も出来高次第ですけど、けっこうもらえますし」
「そうですか。どのくらい貰ってるんですか」
「35万円ちょいですかね」
「――え?」
 猛馬はびっくりして、大須賀の顔を見つめた。
「歩合制なんで、けっこう前後しますけど、平均するとそれくらいだと思いますよ」
「そんなにもらえるんですか?」
 我ながら浅ましい顔をしているに違いないと思いつつ、猛馬は訊かずにはいられない。
「神林さんも、興味あります? NHK地域スタッフ」
 そう問われ、猛馬は恥じたが、大須賀の微笑みに他意は無いようだ。
「いや実は僕も最初は、こんな仕事に就くつもりは無かったんですよ。最初は僕も、普通に民間企業に就職したんです。IT系で、まあ、給料もそこそこだったんですけど、でもすぐ体を壊しちゃって、それでこの仕事を始めたんですよ」
「……」
「いや、分かりますよ。所詮は悪名高いNHK受信料の督促人ですからね。僕だって、昔は何ヶ月も滞納したりしてましたよ」
 そんなことを、督促人本人が口にしてもいいのだろうか。
「でも考えてみてくださいよ」
 と、大須賀は声を落とし、
「どうせ払わされる受信料ですよ? だったらその受信料を取り戻す方法を考えたらいいじゃないですか」
「取り戻す?」
「僕の場合、だいたい年に450万円ちょっと、NHKから受け取ってるんですけど――」
「450万!?」
「ええ。だって、月収が35万円超で、ほかに年2回の報奨金がありますからね」
「え、大須賀さんって、この仕事を始めてどのくらいですか」
「まだ1年弱ですよ」
「今おいくつですか?」
「26、今年27歳になります」
 26歳で、年収450万円。
 ネット情報によれば、年収400万円に到達するのは、一般企業で30代半ばだ。
「お仕事って、忙しいですか?」
「この仕事ですか? いや、特にそんなことはありませんよ。自分で計画書を作成して、それに従って働くんですけど、まあ、別にそれに忠実に従う必要もないですし。基本的に週末と平日の夜に動くことが多いんですけど、毎回毎回、夜間と週末、動き回るわけじゃないんで、割と時間は自由ですね」
「時給にすると、どのくらいなんですか?」
「時給ですか?」
 と、大須賀は笑顔のまま、少し困った顔をして、
「考えたことも無かったな。でも実際に訪問集金できるのって、平日の夜の2、3時間と、週末だけなんで、時給にすると、けっこう稼いでるんじゃないですかね」
「……」
「あと、別に、死に物狂いで集金しなくてもいいんですよ。一ヶ月に一件でも集金とか契約がとれたら給料が出るんで。確か、最低の基本給は15万円だったかな」
 な。
 ん。
 だ。
 と。
 猛馬は、気さくな話し方をするようになった大須賀を、殴り飛ばしてやりたくなった。
 二、三日前のNHKが、ワーキング・プアだとか姥捨て山だとか賃金格差だとか、現代社会を立て続けにクローズ・アップしていたが、そのNHKが、月一度の働くだけの連中にさえ15万円を支給しているとは。
「何ていうか、がむしゃらに訪問しまくっても嫌われたら意味が無いんで、むしろ、そこそこにする方がいいんですよ。あ、でも頑張った先輩で、2、3、4月の平均が80万以上って人もいるらしいですよ。ほら、その時期って引越しが多いから、地域スタッフ的には書き入れ時なんですよ」
「……」
 怒りというか憤懣というか、やるせなさに包まれ、とりあえず呆気にとられた猛馬の前で、大須賀は再びかわいらしい笑顔を見せて、
「まあ、そういう感じで、僕なんかNHKに払わされてる受信料を取り返してやろうって感じで、始めたんですよ。だって、あんなクソつまらなくて気持ち悪い韓国ドラマとかに1万5,000円とか2万5,000円とかも支払わされるんですよ? 何倍にもして取り返さなきゃ、大損じゃないですか――あ、これは内緒ですよ?」
 そういえば、大須賀の左手薬指には、真新しい指輪が輝いている。プラチナで、小さなダイヤが挟まっている。新婚の指輪だ。
「転勤とか、面倒なことも無いんで、結婚しても安心っていうか。あ、でもちょっと保険関係で面倒ですけど、それも何か、NHK地域スタッフ独自の制度がありますし、そもそもそんなに困りませんね」
 なんという仕事か。
 そろそろ猛馬は、うらやましい――と、素直に感じていた。
「何なら一度、説明会に行ったらいいんじゃないですか? それか、直接申し込んでみてもいいかもしれませんね。けっこうすぐ結果が出るんですよ、2週間くらいだったかな。面接と実務テストなんかがありますけど、そんなに難しくなかったですし。何なら僕の名前を出したらいいかもしれませんね。僕に勧められて、けっこうやりがいがあると感じた――とか何とか言えば、割とすんなり採用されると思いますよ。若い人って、けっこう採用されやすいんですよ。神林さん、さわやか系だから間違いないですね」
「じゅ、受信料を払ってなかったっていうのは……?」
「それは逆にアピールポイントになりますよ。僕みたいなスタッフから受信料制度の意義を親切丁寧に説明されて、目が覚めた――みたいなことを言えば、バッチリじゃないですか?」
 大須賀の笑顔に、NHKの犬になりさがる――という不快感を押し殺すことは、容易だった。月収といい勤務時間といい、文句のある仕事ではない。何より、「奪われた受信料を取り返す」という言葉の響きに陶酔した。
「じゃあ、僕もなります――」
 こうして、神林猛馬は、NHK地域スタッフになったのである。

 ただ最初の半年は、苦しかった。
 固定給15万円というのは、この半年の新人期間には適用されないのだ。
「この間は地獄だよ」
 と、最初に大須賀も言っていたとおり、最初の半年は、一日に一件以上の契約が取れなければ日当が出ない。日当は固定給8,000円と歩合だ。さらにこの間は週に一度の研修、ロープレ演習とビデオ鑑賞会がある。
 ロープレとは、ロール・プレイのことで、NHK職員が受信料支払い拒否者を演じ、新人スタッフが督促役を演ずるという、喜劇だ。
「うちはNHKなど見てないから、受信料など払わないぞ!」
 と棒読みで怒って見せる職員、玄関先にゴルフバッグが置いてあるのに気づく新人地域スタッフ、
「あ、ご主人はゴルフをされるのですか。でしたら今NHK教育では、週に×時間のゴルフ教室番組を放映しているんですよ」
「ほう、そうなのか……いや、受信料は払わんぞ!」
「皆様の公平なご負担で成り立っている公共放送です。一か月分だけでも、お支払いいただくわけには行きませんでしょうか」
「う、うむ……仕方ないな。払おう」
「ありがとうございます!」
 こういうロープレと、ビデオ鑑賞。
 不快すぎて笑えるが、ある程度は役に立った。受信料拒否には幾つかのパターンがあって、多くの場合、この研修成果を駆使すれば、払わせる方向へ持って行くことができるのだ。

 そして、半年を耐えきった猛馬。
 担当地区巡回も一人で行えるようになり、不快なロープレにも参加しなくて済むようになった。月に一度の報告会は強制参加だが、その他は週に一度、計画書と報告書を送るだけで良くなったから、猛馬は、日中は家でエロゲームをするか漫画を読むかニコニコ動画を見るかで過ごし、日暮れ頃にのこのこと家を出て、そこらを1時間ほど、夕食場所を探しながら歩き回るだけになった。
 それで、月収35万円。
 国民年金や健康保険、巡回に利用する交通費は自腹だし、組合費が1万円も引かれるため、実質的な手取りは25万円くらいになるが、それでも一人暮らしの身には充分過ぎた。
「楽過ぎて笑える――今度、親に何か買って、送ってやるかな」
 そういう、心の余裕が出来たくらいだった。
 もっとも、実家にはNHK地域スタッフになったことは伝えていない。
「公務員系の団体職員に採用された」
 くらいのことは伝えてあるが、NHKの犬になったことは、告げられずにいる。

 最初のうち、猛馬は、支払いを拒否する家には、初任者研修で言われたとおりのことを、丁寧に、一字一句間違えずに述べ立てた。
 渡されたガイドブックに従って、敬語・丁寧語を使い、専門用語は使わずに正確な言い回しを心がけ、曖昧な言葉は使わず、自信のある言葉を選びつつ、印象を悪くするような言葉は使わないで、滔滔と喋り続けた。
 が、そのうちに、懇切丁寧に、へりくだった言葉づかいをしても、まったく相手にされないことも増えてきた。
 それから、若い女の一人暮らしなど、じっくり説明してやるより、あっさり簡潔に、
「義務だから払え」
 と言ってやる方が効果的であることが分かってきた。丁寧に詳細を話してやるより、払わなければ訴えるぞといえば簡単だった。
 その一方で、最初から断固拒否を貫いている家は、訪れるだけ無駄だということも、分ってきた。何を言っても拒否されるのだから、一言だけであっさり引き下がった方が、双方のためになる。
「あくせく訪問しまくっても、契約が取れないときは取れないし、取れるときは1軒目で取れるんだ。今日はこれで仕事終了――」
 実際、業務委託であるから、自分の健康管理は非常に重要である。有給休暇も無いし、NHK職員が加入しているような健康保険も無い。休めるときに充分な休養を取らなければ、自分の体が持たないではないか。
「ま、それでも月に30万は余裕でもらえるんだけどな」
 と、うそぶく猛馬は笑えてならない。
 彼にとって、訪問先は月収増加の種でしかない。契約や料金徴収がひとつも出来なければ月収が無くなるが、そんなことは絶対に無かった。
 口座振替をしない年寄りや、毎月は来ないだろうと甘い考えをしている契約者が存在している限り、基本給15万円を逃すことは、絶対に無いのだ。

 ――もっとも、嫌なことが無いわけではない。
 新規契約の場合、話は簡単だ。断固拒まれれば引き下がるし、適当に喋って承諾させれば儲けになる、ただそれだけだ。しかし訪問集金、特に支払再開の業務は、だいたい、気が滅入るものだった。
「何だおまえ――」
 という目をされて、今お金が無い、と言われるならともかく、
「不祥事続きのNHKには、もう払わない」
「何でNHKを見てないのに、金を払わなきゃいけねえんだよ」
 と、乱暴に言われることが多い。
「お願いしますよ」
 と低姿勢に頼み込んだ挙句、
「ほらよ。さっさと死ね、馬鹿、泥棒」
 と、さんざんな罵声とともに、お金を投げつけられたこともある。金を出すならまだしも、
「絶対に払わない。殺すぞボケ」
 と怒鳴って暴力を振るう奴だっているのだ。
 そういう家には、閉ざされたドアへ唾を吐いたり、駐車場の車へ十円傷を付けてやったりするのだが、決して、心は晴れなかった。
 さっき、「訪問先は月収増加の種でしかない」と書いたが、そういう認識を持たねば、浴びせられる罵詈悪口に耐えられない、ということもある。
 いつでも笑顔。
 さわやかな言動。
 このふたつを念頭に、延々と各戸訪問を繰り返したが、次第に、日中のエロゲームの時間が長くなっていることに、彼自身、気づかなかった。選ぶゲームも、陵辱もの、スカトロものばかりになって、市販ゲームでは満足できず、独自流通しているような、過激なゲームを選ぶことも増えた。
 が、彼はNHK地域スタッフとしての高給だけは誇らしく思い、低賃金で長時間労働に従事する一般人より、自分は正しい選択をしていると確信していた。

 ある12月の、木曜日、午前9時。
 まだ布団の中にいる猛馬の携帯電話が鳴って、支局営業部職員から、連絡が入った。
 営業部のNHK正規職員は、一人につき5,6名の地域スタッフを管理していて、これまでは、人のいい高卒職員が、彼の担当だった。
 それが、中途採用の30過ぎの男に交代したらしい、
『どうも、牧火哲也です。今度から担当になりました。よろしくお願いします』
 電話口から聞こえるのは、脂っこい、口呼吸の声だった。
『えっと神林さんは今月、昨日までの新規契約がゼロですけど、何かありましたか』
 と、牧火はいきなり尋ねた。
「あ、いえ、別に。前と同じように回ってるんですけど、職員の不祥事なんかで拒否されることが増えてます」
 暗に、自分の責任ではないと言ったが、
『でも他のスタッフさんは5件とか6件とか、取ってますけど?』
「その人、営業が上手なんですね」
『一度局で、ロープレしましょうか。今日、来局できますか』
 半ば強制するような口調だが、今さらそんなものが役に立つわけがない。
「いえ、局にお邪魔するより、地道に回ったほうが契約が取れると思うんで、行きません」
 猛馬は、密室でネチネチやられるだけの呼び出しには、絶対に応じてはならないと、大須賀から教えられている――そういえば近ごろ大須賀を見ないが、どうしたのだろう?
『じゃあとりあえず、今週末までにある程度の結果が出ないようなら、来週の木曜、来局してもらいますね。今週は、あと5件はとってください。最近の神林さんの成績、特にひどいですよね?』
 猛馬は、適当に電話を切ったが、この電話でやる気が起きるわけが無かった。むしろ朝から精気が削がれた。
「はいはい、誠心誠意、努力しますね」
 と、朝食もとらずにPCを立ち上げた猛馬は、PCが立ち上がるまでの間、とりあえず、最新の滞納者リストを眺めてみた。
 知り合いがいないか、若い女はどこにいるのか……ぼんやり眺めていたら、驚いた。
『大須賀歩辰』
 彼は、地域スタッフを辞めていたのである。

 再会した大須賀は、憔悴していた。
 頬の肉が落ち、髪はボサボサ、土気色した肌からは、生気がほとんど感じられなかった。
「お久しぶりです、神林です」
 そう挨拶すると、大須賀は素直に扉を開けたが、背後からは、ボリューム全開にしたTVの音と、むっとする臭気が漂ってきた。ぬるぬる腐った魚の臭い――というか、これは猛馬がエロゲームを堪能した後、丸めたティッシュから発せられる、あの臭いだ。それが濃密に漂っている。
「えっと……大須賀さん、どうかしたんですか? ていうか、地域スタッフ、辞めちゃったんですね」
 そう尋ねると、大須賀は、焦点の合わないような目で猛馬を見て、
「離婚してね……」
 と、八重歯を見せて笑った。黄色い歯だ。
「そ、そうなんですか……それは、何というか、ご愁傷さまで」
 猛馬の第六感が、これは危険人物――と告げている。地域スタッフの必需品、携帯端末ナビタンに、『精神疾患要注意』と登録する部類の人間だ。ちなみに、ナビタンにはほかに「未払」とか「ヤ」「同」「暴」「貧」「共」「在」等の項目があって、そういう家には近づかないようにしている。
 大須賀は、カサカサの肌に笑みを浮かべて、
「えっと、大須賀さん、受信料ですけど。地域スタッフを辞めちゃって、受信料を取り返せなくなったから、払わないんですか? でもこれまでで充分、取り返してるんじゃないですか?」
 と、以前の親しさもあったから、さっさと引き下がろうと思いつつも、軽い口調で続けたら、大須賀はギョロリ――と窪んだ目を向けて、
「嫁さんがさ、出て行ったんだよね――」
 と、一瞬、猛馬に生気の無い殺意を向けた。
 が、すぐにカサカサの笑みで打ち消して、
「おまえもさ、早く辞めた方がいいんじゃないの? クソだろう、その仕事?」
「え、いや、何ていうか……」
 あんたがこの仕事に誘ったんじゃないか、と笑いたくなったが、やめた。
「一度家に帰って、自分の顔をさ、鏡で見たほうがいいと思うんだよね」
「顔、ですか……」
「いや、まあ、もう僕、関係ないけどね。とりあえず僕、TV持ってないから」
「……あ、じゃあ、今日はこれで失礼します」
 猛馬は逃げ帰った。ナビタンに登録するまでもない、二度と大須賀歩辰には近づくまいと決めていた。このアパート自体に近づかないほうがいいとさえ思った。
「それにしてもあの大須賀さんがなあ……」
 外へ出て、猛馬は、キラキラに輝いていたような、昔の大須賀を思い出して、何となく、空虚な気持ちになった。
 皆様のNHK地域スタッフ――。
 地域スタッフへの経費は、NHK予算6千億円のうちの356億円に達する。要するにNHK予算の13%近い金を、自分たち集金人が自己消費しているのだ。
 地域スタッフの側としては、大した働きもしないで毎月30万、40万円がもらえるのは、悪くない。
 人から疎まれ、嫌われるがそれが何だというのだ。
「所詮、労働なんて金のためだ。人から何と言われようが知ったことか」
 と思う――心底、思う。
 ただ、こういう自分の仕事に対しても、感謝することを忘れない、善良な人もいるのだ。そしてそういう人を、『何も知らず、金を搾取されるだけの馬鹿な奴』としか思えない自分は、正直なところ、不快――だった。
「けれど休みは自由に取れるし、拘束的な勤務時間も無い。金も、そうとうな額をもらえる。どこに不満があるんだ――」
 そう、自分を怒鳴りつけたくもなるが、そうやって怒鳴りつけなければ、自分自身が納得できないのかもしれない――。
「ああ……だるい」
 猛馬は、その日はそのまま家に帰り、そのまま民放TVをつけPCをつけゲームのサントラを大音量でかけて、エロゲームを起動した直後に、終了した。2chもニコニコ動画も、面倒くさかった。
「……」
 とりあえず、週明けまでは、牧火哲也からの電話は無いだろう。だからそれまでは何もしなくていい。
 それで週明けに牧火からの連絡があった後、どうするか。
「それは、そのとき考えれば……」
 猛馬はけだるく、独語した。
「それに」
 一晩眠れば、明日は考えが変わるかもしれない。そうして明日、何となく各戸訪問してみたら、意外と続けざまに、新規の衛星契約が取れるかもしれない。
 もっとも逆に、訪問する家はすべて意地の悪い、ケチな連中ばかりで、すべての家で罵声を浴びせられ、暴力を振るわれ、一日を完全に無駄にするかもしれない。
「まあ、どっちでもいいか……」
 目をつぶった猛馬の前に、様々な色の扉が見えてきた。市営住宅のスチールドア、淡い赤、青、緑色。古いアパートの、蹴破れそうな木製扉。賃貸マンションの木目扉、黒、鏡面、白、様々なカラーバリエーション。それから一戸建ての格子戸やアルミ引き戸。
 そのいずれも、閉ざされている。
「こんにちは、皆様のNHKです。受信料をお願いします……」
 そう呟いたら、かぎりなく、寂しくなった。
 扉は開かない。閉ざされたスチールドア。
 だがそれが開いたところで、いったい何が現れるというのだろう。自分を警戒し、不快に感じ、憎悪すら発している目か。それとも自分を歓迎する目か。
「見たくない、見たくない――」
 精神的な疲労を肉体的な疲労に置き換えた猛馬は、あとは意識を閉じて、PCもTVもそのままに、民放TVのやかましい音を聞きながら、敷きっぱなしの布団へ、ただ、もぐり込むだけだった。

(平成20年 4月28日)


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